クローネンバーグ『ヒストリー・オブ・バイオレンス』―現実感から遠いところでしか描き得ないもの

【introduction】
気にはなっていたがバロウズの原作にひかれてみた『裸のランチ』以外はみたことのなかったクローネンバーグ作。ファンの同級生M君に誘われて出かけた。平和に暮らしていたコーヒー店主のもとに、かつて店主にひどいことをされたというマフィアがやって来て穏やかな日常が崩れていくというスリラー。

【review】
ほとんど作品をみたことがなくても知っている、多くの映画人に影響を与えた、ドサッ、ドサッと倒れ、目いっぱいに鮮血が吹き出る人。幸運にもリアルライフでそうやって人が殺されて倒れる場面に出くわしたことはないが、やっぱりあの倒れ方は現実的ではないだろう。そしてあの倒れ方は、作品がリアリティよりむしろ寓話として、しかも現実を映す寓話として成り立っていることの宣言ではないかと思われる。
冒頭の殺戮シーンは見るからに異常としても、店主妻のチアガールコスプレ、息子のさえない学校生活、母子が行くへんてこなショッピングモールといった日常のシーンが、何とも現実味を欠いているところがすごい。映画は、例えばケン・ローチのようなリアリティ重視の社会派でも作家のスタイルから離れることはできないが、それにしてもこの現実感のねじれ方は見事だ。それがミュージカル映画のように、リアリティを飛び越えることなく離れているのがおもしろい。途中、妻に銃を用意しろというあたりの暴走感を経て、店主の正体が明かされていく過程にはあっけにとられた。特に妻に性衝動をぶつけるあの階段シーンは、「暴力の来歴」が濃縮されているようで見応えがある。
それは現実感から少しだけずれた土台を並べた上に広がっていた、やはり現実感のない穏やかさを、主人公の店主自らが崩そうとする、現実的な衝動という風に思えた。しかも、それが奇妙に現実感から遠い映像で描かれるから不気味さは増す。現実感から遠いところでしか描き得ないものが、粗っぽい丁寧さで描かれていて絶妙だ。
それだけに、敵のアジトに行ってからのアクションシーンはつまらなかった。

6月2日 高崎シネマテーク

(BGMはまったく関係なく、目に付いたスライ&ファミリーストーン "anthology"。「ファミリーストーン」って何のことだろうと思ったら、家族バンドと知って驚き)

ニール・ヤング "parairie wind"―ゆったりとして律儀な深化 "without anywhere to stay"

ニール・ヤングをきいていていつも思うのは実にまじめなミュージシャンだということ、もちろん“彼なりに”ではあるけれど。
ちゃんとききだしたのは遅いが遡ってけっこうきいたし、18年ぶりという01年のフジロック、次の年か武道館の "greendale" ツアーにも行った。個人的ベストの "after the gold rush" をはじめとするアコースティックものから名作ライブと評価の高い "weld" をはじめとするハード路線、"greendale" などのトータルアルバム。そのいずれもが捨てがたい魅力に満ちていて、ずいぶん隔たりがあるようでいながら一貫している。それは古いタイプのロックスピリット、初期衝動の確かさがあるから。ギターやベース、ドラムに少しのキーボード、それにたまにのストリングスやブラスといったスタイルへの信頼は、音楽のタイプは違ってもパティ・スミスと似たものを感じる。そうしてできる作品は付き合いの長いクレイジーホースほか誰とやっても決してぶれることはなく、ワンパターンではないがいくつかのパターンを踏みながらいつも深化しているところがすごい。
そして05年秋に出たこのアルバムは、"after the gold rush" "harvest" などの流れを汲むアコースティック・ヤング。こういう静かな作品を「全開」という言葉を使うのは抵抗があるが、彼の最良の部分の一つがよく出た佳作だと思う。かつてとまったく同じようにきこえるサウンドに浸っていると、それでもこれはあまりきかなかった "are you passionate?" でのメンフィス録音など、最近の経験がよく反映された印象があって新鮮だ。その音楽から受けるのと同じ、ゆったりとして律儀な深化。
いい曲は多いけど、1曲といわれればM5 "It's a dream"。この人は本当にワルツがうまい。曲づくりでいつもぶっ飛ばされるのはBメロの展開のしかたで、甘くとろけるようでいてどうしようもない切なさが、いつでも至上の音楽時間を味わわせてくれる。
新聞のニュースを見て「これはただの夢なんだ」と歌う歌詞は、ともすれば定型的だ。だが社会の批判はこうした日常の中からの歌こそ有効だろうし、それがすばらしいサウンドに乗るところに音楽の奇跡の一つがある。最後の "without anywhere to stay" の切実さは、この軽やかなワルツと滑らかなサウンドがあってこそ重い。

05年11月7日聴了 アマゾンで購入

湯本香樹実『ポプラの秋』―夢見る時間だけにわかるほんとう

今日も暖かな11月。昼間はこの小説に触発されたわけではないけれど、サツマイモを掘りました。本作によれば、新聞紙とぎんがみでくるんでポプラのはっぱで焼くのだそうです。

【introduction】
湯本香樹実さん―こうやって書いてみると、何ともいえず美しい名前です。そしてけっこう前に読んだ『夏の庭』は、児童文学には欠かせない、それから先に広がる長い時間への道しるべとその助けとなる好奇心、加えてあの時期特有のわい雑な感じがうまい具合のあんばいで、こういった素材にうってつけだった故・相米慎二監督の映画とともに、塾内でも多くの生徒が触れた素敵な庭でした。
その後、芥川賞候補にもなった湯本さんも実際に著書に触れることはなく、この本も何年か前に買ったままほったらかし。手に取ったのは、残したい日本の文化の一つとしての児童文学書籍の伝統が息づく見事な表紙を見て、ああ、秋のうちに読まねばと思ったからでした。
ストーリーといえば、主人公の30代女性がさざめく小学校低学年時代の多くの時間をともに過ごした気難しげな老女の死からカットバックされる、その直前に父を失った少女とその母、そして魅力的なアパートの住民たちが周囲を思いやる姿が美しい、少女のビルドゥンクスロマンです。

【review】
児童文学と思って読み始めてみたけれど、本当は大人のためにこそ書かれた小説かも知れない。
それは複数男子が気ままでややチューニングの狂ったメジャーコードを奏でていた『夏の庭』に対し、『ポプラの秋』には始終マイナーコードが流れているから。同じく老人の死を扱っていて、どちらも心地よいユーモアに包まれていながらも。
父の死というとてつもない大事件にあった母と子はポプラ荘と呼ばれるおばあさんのアパートにたどり着き、そこで出会う人々との触れ合いを通して失いかけた日常を再生していく。主人公の少女の自己の、おぼつかないけれど必死な、創造の物語だ。
肉親の死は重い。それが小学生とその母親ならなおさらだ。言葉なしの表現が可能な映画にこそ向いたテーマのようで、幼女が母の死を受け入れる『ポネット』、日常の積み重ねによって息子の死を乗り越える『息子の部屋』、夫の死を遠ざける『かげろう』や、子どもの死という難題に立ち向かう『哀しみの終わる時』もあった。これらの作品ではいずれも映像の雄弁さによって、観客は肉親の死を擬似体験させられる。
映像に対し、内面を語りがちな「言葉」は重い。その重さがあるから、肉親の死というとてつもない出来事に対し、映画のような跳躍的な表現ができない。映画と小説にはそんな違いがあるように思われる。
そのハンデを湯本さんは、意外な方法で克服した。一つは少女の気持ちの描写をおばあさんの、いわば妖怪性への違和感に集め、それを受け入れるというかたちで心の変容を描いたこと。もう一つは死者への手紙と引き出しという、恐ろしいけれどもファンタジックな舞台装置を用意したことだ。
少女とおばあさんの話に加え、隣人である衣装係やタクシー運転手とその離れて暮らす息子ら登場人物が増えることは、主人公の少女の世界が広がっていくことにほかならない。そして少女が、多くのことを知れば知るほどわからなくなっていくもの。それがこの小説でもっとも多くの音が重ねられたマイナーコードだ。
そして何でもないけれど、じわじわと心に響くいろいろが繰り広げられた後の終盤。「先週日記」のタイトルにも使った、「てがみは、こころのなかで、かくことにします」。この一節は、主人公にとっての一つの時間が終わったことを宣言して深く心を打つ。
たとえば、『コインロッカーベイビーズ』のハシの「ねえ、見てキク、きれいだよ」、『嵐が丘』のキャサリンの「わたしはあなた、あなたはわたしなの」、『赤毛のアン』の「わあ、雪の女王様だ」、『ハックルベリー・フィンの冒険』の「そうだ、ぼくは地獄へ行こう」、『風葬の教室』の「何てかわいそうな人たちだろう」といった、小説の世界だからこそリアルな少年少女たちの決意表明と同じようにずっと忘れることはなく、思い出すたびに読んだ時のページから鳴り響いたコードをきくのだろう。

ラストの葬儀のシーン。印象はまったく違うのに思い出したのは、なぜだかガルシア=マルケス『ママ=グランデの葬儀』だった。マルケスの小説が「マジック=リアリズム」なら湯本さんのこの作品は“ファンタジック=リアリズム”。夢見る時間だけにわかるほんとうなのだ。
そして30歳になった主人公があのポプラの前に立った時から流れるのは、たとえば2オクターブ、6つの音を重ねたCコードのゆっくりとした4つ打ちだろう。カラフルでおだやかで決意に満ちた。

※引用記憶につき不正確

(BGMはケンペのブラームス第4番。昨日の「BGD」というのはおかしい、over まろやかさはない "riccovino bianco"。そう、昨日は何か今までのテンプレート「家具 コットン」があまりに地味に思え、「ダイニング 赤ワイン」というのに替えました)

B・デ・パルマ『ブラック・ダリア』―たまたまみたメタリカかオフスプリングのような

そんなに多くみているわけでもないブライアン・デ・パルマについては、特に思い入れがない代わりに別に嫌いなわけでもなく、『ブラック・ダリア』は知らなかったJ・エルロイは馳星周氏絶賛の『ホワイト・ジャズ』を読み、ツイストが過ぎて途中からもう何も信じられない状態に入り辟易とした記憶があり、ただスカーレット・ヨハンソンは、若くてまだ硬い感じだった『モンタナの風に吹かれて』や『ゴースト・ワールド』、それから見事に輪郭がぼやけてとろけそうになった『ロスト・イン・トランスレーション』とみて、まあ米国若手女優では注目していて、劇場でみるだけの価値ありと車で出かけた。
何だかんだいって、観客を飽きさせないのはさすが。ただその印象はどちらのファンも納得しないだろうが、たとえばそう、名前を挙げればメタリカとかオフスプリングとか、そんなに興味がなくてラジオできいたことくらいはあってもCDは持っていないバンドのライブをたまたまテレビか何かでみて、ああ、うまいしエンターテインメントとしてはよくできてるし、好きな人は好きなんだろうなといった感じなのだ個人的には。ハッタリ満点で適度におどろおどろしく、高度にパターンナイズされている点が似ている。
アンタッチャブル』を思い出すフィルム・ノワール風味や得意の階段を使った演出、そのシーンでは初期にヒッチコックの後継者といわれた影の使い方も見事だった。いつもながらのよくできたセット、ボクシングシーンのリングや観客席、女優の配置やお手本通りの撮影、もったいつけたカット割りなどなど。それらはメタリカオフスプリングの完璧なリフや構成、文句のつけようもないステージングと同じように、熱狂的なファンや反対に苦笑の対象にしたがる映画ファンにとっては、これ以上ないデ・パルマ作を堪能できるのだろう。
しかしそのどちらでもない観客にとっては、やはりいつものデ・パルマ作。入場料を損したと思わない代わりに、次のデ・パルマが楽しみとも思わない。変ないい方だが、もはや安心してみられる“コージー”サスペンスホラー。たとえばほぼ同時代が舞台の『ロード・トゥ・パーディション』みたいに、文句のいいようがあればその方がいいようにも思えるが。
といってきっと次のデ・パルマ作も、時間があればみにいってしまうのだろうな。おそらくキャストとか題材とか、こっちの気を引くのを見つけてくるに違いないから。
唯一の謎は、ブラック・ダリアの映像を粒子の粗くないモノクロで撮ったのはなぜかということ。あの片目だけの涙のシーンは、確かにオールドフィルムタッチでは表せなかったろうが。
ヨハンヨンはよかった。大根っぽい演出もデ・パルマの得意とするところだと思う。

11月2日 伊勢崎MOVIX

(BGMは J-WAVE小林克也の番組でマーヴィン・ゲイ特集から11時の鳥山何とかのジャズ番組に。日曜のこの時間のラインアップもいい。Phは goo では2点しかなく、イマイチだがヨハンヨンの方をチョイス)

ポール・ウェラー "Catch-Flame!"―おしゃれ頑固の骨太集大成

スタジオ最新作 "as is now"(http://blog.goo.ne.jp/quarante_ans/e/4f0267bbd5206c8622cfa92bcdbe61cb)についての記事で、学生時代、ジャケ写のファッションを真似ていたなどという個人的ファン史には触れたのでここではサウンド面のみ。そういえば、音楽記事24本目にして初めての同じアーティスト二度目記事だ。まあ、それはどうでもいいが。

05年に行われ、来日公演もあったツアーのライブ。この公演は知ってはいたが、前年のロックオデッセイに行ったこともあってスルーした。愚か先に立たず。
そう、WOWOW でやっていたブリットアワードでのライブの数曲をきいて、このアルバムはすごいだろうことはよくわかった。わずかな曲数なのに全キャリアを包括したラインナップ。ということは懐かしい曲もあるわけだが、それがひょっとしたら発表した当時より熱い演奏で支えられていた。むう。
長いキャリアの持ち主のライブでは、昔の曲のウケがいいことはしかたないことかも知れない。事実、けっこう遅れて最初にみた何年か前のアコースティックセットでは、本作にも収められている Thats entertainment などソロ以前の曲の方がウケがよく、あのウェラーでさえと、おかしな納得のしかたをしたものだ。あの熱い横浜国際でもイントロがきこえて私が一番嬉しかったのは、スタイルカウンシル時代の my ever changing moods である。
しかしこのライブ盤はどうだろう。もう30年にもなるキャリアから選ばれた23曲(輸入盤)の間にほとんど温度差は感じられず、すべて同じアルバムに収録されている曲であるかのようだ。
とくに曲づくりという面において、私はウェラーのことを実はそんなにたいしたことはないと思っている。多くの先達、キンス、ビートルズスティーヴ・ウィンウッド、ソウル、サザンなどを見事に消化して完璧といえるサウンドをつくり上げるが、曲そのものにクラシックとなるほどのポピュラリティーはない。曲自体のシンプルさにも関わらずだ。それは例えば同世代で同じようなキャリアを持つ、エルヴィス・コステロやスティングと違って、あまりカヴァーされることがない事実にも現れているように思う。私の中でウェラーは、その何曲かをやはりうまく取り入れたことのある“和製ウェラー”とでもいえそうな佐野元春氏と同じように、極めて「秀才」タイプのミュージシャンだと思っていた。
その印象は本作をきいて変わったというわけではない。ただ、これまで思っていた以上にウェラーは“ウェラー”だったということだ。
たとえばキャリアの一つの頂点ともいわれるソロ2枚目からの Wild wood。ソロ最初のライブ盤のタイトルでもあったこの曲をその発表時以上の熱さをもって演奏するなどということが可能なミュージシャンというのは、とくに初期衝動が重んじられるロック音楽の場合考えにくい。熱さの代わりに「円熟」してくるのが普通だろう。
だが本作でのウェラーは、20年前のジャム後期〜スタイル・カウンシル初期よりずっと漲っている。passive tune といわれたこの時期が大人への憧れを具現をテーマにしていたろうことを考えても、この年齢になっての変化、いや深化はまったく驚くべきといわねばならない。
と、何だか音以外の話ばかりになったが、細かいサウンドのことは本作の場合あまり重要でないように思う。歳を重ねてますます熱くなる、このおしゃれでもある頑固者の骨太な集大成に身をまかせ、うーんとうなっていればいいのである。選曲は抜群だから、初めてきく人にはベスト盤的に機能するだろう、
前回の記事をまた繰り返すしかない。どこに行くのかウェラー。こんなライブを発表した後で。

7月15日聴了

(自宅PCが動かなくなり iriver 入れ替えできずBGMは J-WAVE。早く何とかせねば)

島田雅彦『退廃姉妹』―「だらだら」と“感動的”であること

島田雅彦氏の小説世界のもっとも大きな魅力は、完璧ともいっていい見事な「だらだら加減」にある。少なくとも今まで私が読んだ中では。
たとえば、新聞小説ということも手伝って、架空のだらだら世界に徐々に身を沈めていく快感が味わえた『忘れられた帝国』、縦横無尽なだらだらで世界を駆け回った初期の『天国が降ってくる』、いったい何がいいたいんだとうなった『やけっぱちのアリス』、漱石を自らのだらだらワールドに引き寄せた『彼岸先生』、不思議なかたちで倫理的な『君が壊れてしまう前に』などなど、まったくしょうがねえなあなどと思いながらどんどん引き込まれていき、読み終わっても、いやあ何だったんだろうなという感じが残る。だらだらなのにやけに大きなスケール感。『退廃姉妹』のキャラクターには恐らくサド『悪徳の栄え』『美徳の不幸』のジュリエット、ジュスティーヌ姉妹にヒントがあるだろうが、サド作品とはその得体の知れないスケール感が共通している。
その魅力こそは「小説」というジャンルに特権的に認められた種類の「快楽]であり、それを誰にもまねできない方法で作品に塗り込められるという点で、島田氏はこの国の作家の中で特権的な地位を占めているように思える。
そしてこの『退廃姉妹』。姉の振り返らない愛と妹の爆発する生命力で戦後の混乱を生きるというストーリーを語るのに、氏以上の語り口は考えられない。姉妹の精神的支柱といえる母の「レースをつけた白旗を振る」というイメージが、この作品世界を象徴していると思う。美しくあろうとすることは、生きることと同義なのだ。
時代考証も絶妙だ。当時を知らない私などでも、戦中世代らの作品に比べて本物とは思えない空気が全体を支配している。だが、そうした正確さなどお構いなしに、新たな世界を創造することが仕事だといわんばかりに“島田氏の戦後”を描き出す。
表紙に引用された、「オレの不幸がうつるぞ。」「いいんです。うつしてください。」の、たとえば『冬のソナタ』あたりから遥かに離れた不思議なカタルシス。これが「感動的」でなく“感動的”であることをわかってもらうには、読んでいただくしかない。
何なんだろう。

8月24日読了

(BGMは金曜恒例NHK渋谷陽一。げっ、今チープトリックが)

『ホテル・ルワンダ』―「本当であること」の重要さ

高校生の頃、当時よくそうしていたように中学の同級生と麻雀をしていて、たまたまその晩のゴールデン洋画劇場で放送される『ローマの休日』の話になった。この名作をみたことがあったメンバーが私とJ君がその素晴らしさを語っていた時にT君が放った次の質問は当時「映画」というものを信じようとしていた私に、何だか異国の言葉のように響いたのを不思議と忘れない。
「それ、本当にあった話なん?」。もちろん私はこの、今は2人の10代のよき父親で当時から実に性格のいい友人に対し、何ておろかなことをいうやつだという思いを抱いた。当時もそして今も私にとって、映画の世界が「本当」かどうかはたいして重要でない。それが現実であってもなくても、映画が産み出す「ほんとう」の方がずっと尊いものだと思い続けている。
だがこの作品をみる時、「本当」ということはこれまでにない意味を持つ。この作品にとっては、「本当」であることが何より重要なのだ。
今は「ルワンダ内戦」と呼ばれる1994年という最近のこの事実について、果たしてどれだけのことを知っていただろう。ツチ族フツ族宗主国の差別的統治、サッカーW杯休戦があったことなどの断片的な知識があり、すでに衛星放送を見ていたことだしいくらかのニュース映像も目にしていたかも知れない。
しかしそうした「事実」は、あの国の人々が味わっただろう恐怖をまったく説明していなかったか、または私の方がそれを受け入れる態勢を欠いていた。この映画で観客が追体験する恐怖は、それほど強烈なものである。
それまで身近にいて何のこだわりもなく関係していた人々が、突如として変貌していく。この有様はドン・シーゲル『ボディ・スナッチャー』などの恐怖SFの世界で描かれてきたものであり、それが現実のある程度平和だった街で起こるとは到底思えない。怖いのはまた、それがだんだんと起こっていくことである。
例えば『ユナイテッド93』で乗客や航空関係者が徐々に真相を知っていくことでこの上なく恐怖が増幅されていくのと同じように、信じるに足ると思っていた人物が彼らにもどうしようもない道筋で自分の反対側に変わっていくのがリアルだ。さらにいえばドン・チードル演じる主人公が、大きなヒューマニズムは崩さないながらも、自分の家族とそれ以外のボランティアなどと大きな線を引いているのも苦しいほどリアルといえる。
さらには同じ虐殺を扱った『キリングフィールド』にあった感動的といってもいい“奇蹟”のカタルシスはここにはなく、ただこうした状況では、こうやって命を信じて、どんなことでもやって手を尽くして、それでよほど運がよかった人だけ生き残れるんだなという、当たり前の事実を知るだけなのだ。『キリングフィールド』では、あの絶望的な状況の中、ああこういう奇蹟もあるんだという希望も感じられたのに。
屋上のシーン、浴室のシーンなどまるで娯楽作品のようなハラハラドキドキがあり、感動作品のように涙を誘う再会があり、悲しい別れもある。けれどそれは、あの9・11WTCをみて「まるで映画だ」と多くの人が思ったように、こうした場面では決してめずらしくはない現実なのに映画のようなシーンで、それを再現したのがこの作品なのだろう。
とくに湾岸戦争の頃から発達してきた中途半端にリアルに感じられるニュース映像は、おそらくこうした出来事を知らせるのに向いていない。そこにあるのは衝撃や刺激だけで、人の心に迫る物語が欠けているからだ。
本作をみて「つくりもの」などという者がいたら言語道断だろう。こんな「つくりもの」をつくらせた「ほんもの」の方が貴重なのであり、そんな「つくりもの」が語るものの方が「本当」に見える「ニュース」よりよほど「ほんもの」なのだ。
T君の発言から25年。私は初めて「本当であること」が重要な映画に出会ったように思う。