高橋源一郎、エミール・シオランの夕〜Public Image Ltd. の夜

goo には昨日アップしたのですが、Hatena ログインできずで、初めてオペラを使ってみました。新鮮です。ですので、昨日金曜の話。

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今日はただの日記。ただし「文学」がテーマなので「読書」カテゴリ―に。

今週は風邪でふらふらしながらそれでもだいたい働いていて、たまに動かなくなってねこどもが上に乗っかる中で寝たり、要するに苦戦続きの中、今日は午前中から2日ぶりに風呂に入り、お午に同級生M君に誘われてすしランチに舌鼓を打ったまではよかったが、帰ると風邪薬もきいたかPC前で眠り、朦朧とした中で夕方に家を出て、昨日もそうだが風邪の時はニンニクだぜ明日は仕事もないから大丈夫だと進路をまあまあ餃子まるよしに取るも、近づくと何か腹が張ってまあいいやという気になり、そういえば、まずいずいぶん前に仕事の資料として借りたサッカー本10冊返してなかったと市立図書館に行ったら金曜は7時までらしくまだ開いているのが、すっかり暮れなずむ6時。

そして図書館は、からだの生き返るところだと知る。

スーパー袋に入れて10冊をカウンターに。実は返却ポストもあるのだが、約半年10冊借りっぱなしの非を詫びるには、やはりカウンターで職員と対面すべきであろう。
ああ、すみません、ずっと借りっぱなしで申し訳ありませんと平身低頭に出るが、クールな女子職員は動じることなく返却処理を済ませるのはきっと彼女の優しさなのだろう。ここではたまに行く国会図書館のプロフェッショナリズムあふれる闘士公務員と違い、利用者に静かに注意することもない。まあ、それはそれでいいのかも知れないと自由を得た非道利用者は、ふらふらと書架に近づく。
実は朝、J−WAVE茂木健一郎が出ることをファンのOB・I君に知らせるべくメールを送り、やつが今、荒川洋司を読んでいて、この間貸した本か保坂和志をおもしろいといっていたので、東京猫さんのブログ(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20061209#p1)で知った保坂と高橋源一郎の対談を読みたいと書き送っていたのだから、今回の図書館訪問は実は確信犯といえなくもない。しかし、そう思い込んでいた『新潮』にはその対談はなく、ぽろぽろといくつか拾い読みした後、最新刊の『文学界』を手に取って、手近な座り心地のいい一人いすに座った。

この1冊を抱えてのおそらく15分ほどは、小さな文字の中に体が溶け込んで、そして立て直されたような時間である。

まず、芥川賞青山七恵。この23歳は隣町熊谷出身とはきいていたが、インタビューを読むと、それは自宅にほど近い旧妻沼町だと知った。それはいいのだが、先週あたりか毎日の夕刊で読んだ受賞の弁、誰か雑誌で読んだというアーティストの言、実はたぶん自分もそれを読んだような気がする、「25歳は25歳の音楽をやらなければならない。28歳の音楽をやってもいいが、22歳の音楽をやっては絶対にいけない」というのを読み、何とりっぱな23歳だと思ったのと相似形に、「高校の頃好きだったアイスランド“というところの歌手”(強調筆者)ビョークが私の音楽が完成するのは60歳か70歳というのを読んで」と書いていたのにどどどどど。まったく己の23歳を考えて恥じ入った次第である。
ふーむと思って、次にずっと注目していたが未読の佐藤優の連載らしき『私のマルクス』。ロシア外交の裏を語って話題の元外交官作家の同志社大時代の学生闘争を描いた連載のようだが、何といっても神学生としての信仰を通低音に、革命闘争と時代論を交差させてとんでもない世界が語られていた。早くちゃんと著書を読もう。
そして高橋源一郎の連載評論『ニッポンの小説』。今回は川上弘美舞鶴』の読解だが、その文字一つひとつをかき分けて、語りえぬところまで読んでいく姿勢にはあっけにとられる。途中、「行間」に関して荒川洋司の名も出てきたが、たとえばジョイスを読むこういのようにテキストはつねに開かれていなければならず、文学といういとなみのふしぎさ、きみょうさをうみだしていくこのテキストは、きっとでぃいえぬえいのにじゅうらせんのようにしんぴてきなものなのだろう。
ここで『文学界』を置いて、この時間を小林秀雄ならどんな風にいうのだろうなどと考えながら書架の間を歩き、周りを取り囲んでいる異様な本たちにたじろいだ。

世の中にはこんなに大活字本というやつがあったのか。

大活字本といえば、たとえば森鴎外とか中勘助とか、つまり高齢者うけのいい本くらいだろうと思っていたらそんなことはない。最新ベストセラー作家、東野圭吾とか重松清か、何というかすべての本が大きくなっていて、いつの間にかこれはガリバーの国に来てしまったのではないかと思うほどだった。
とはいえサイズはまあ、最近の中学生の教科書くらい。ダウンサイジングがすべてでないと常に言い散らかしている私だが、いくらなんでも遠藤周作『沈黙』が3巻に分かれているのでは大変などと思いながら、何となく読んでみたかった島尾敏男『日の移ろい』を少し読む。字がでかくて少ないから、読み進むにはかなりのページをめくらねばならず、これはたとえば寒い夜に布団の中で読むのには向かないななどと思ったりもしたが、本来そういうシチュエーションで読むものではないだろう。
と、ここで巨人の本地帯を去り、ほとんど学校には行かなかったとはいえ元仏文学徒として、知らない本屋に行っても実力を探るためにまず立ってみるフランス文学コーナーへ行く。近年の不調から蔵書は少なくなり、卒論にしたヌーヴォーロマンの作家などはほとんど見かけないのはさびしいにしても、当然よく知る名は何人も目に入る。そんな中、一冊取り出したのはヴァレリー論に始まる松浦寿輝『謎・死・閾 』。

そうだ、こういう本は4400円くらいするんだ。これじゃちょっと買えないぞ。

だいたい松浦寿輝の本は文庫でも高いからなかなか買えないということを思い出し、その見事な文体の評論に読み入る。
数葉の写真におけるガストン・パシュラールの「手」の中に性愛とはまったく別の「官能性」を見出し、その分析をサルトルのそれと比較する。結局、その相違を両者の出自に求めるあたりがぞっとするくらいエレガントだ。
そして、こちらは名前すら初めて知ったエミール・シオランの『涙と聖者』論。これも今までにニーチェに関する本を何冊も読んできたけれども知らなかった「私は涙と音楽とを区別するすべを知らない」を絶妙のタイミングで引きながら、鮮やかにかつ美しく開帳する異端の思想家の思考は実に刺激的だった。金井裕、出口裕弘の名訳への賛辞も忘れないところも行き届いていて気持ちがいい。
と、ここまでで約50分。

美しいリズム、しなやかな思考に浴びるように触れていると、何だか風邪気味のからだがすっと軽くなった。

これら文学がニューロンにつくり出した、茂木健一郎のいうクオリアが肉体にも作用するのかも知れない。高橋源一郎が同じ評論中で、どうしようもなくなった時は本棚から何か取り出して読んでみるというようなことを書いていたが、そういうものだと思う。
毎日浴びるように酒を飲んだり、少しでもおいしいものを食べようとしていて、それはからだにいいと思うけど、奇妙なことに肉体とはあまり関係のなさそうなことがからだにいいことがあるみたいだ。

4400円を借りていってまたも半年くらい拉致するという手もあるが、それはやめておいた。ここにあって、パシュラールがシオランがまだそれを知らない誰かを刺激する方がずっといい。人口10万の街でこれを手にする人間が何人いるか知らぬが、家に持ち帰って可能性を狭めることは罪な、はしたない行為のように思われた。

クロージング音楽がかかる中、手ぶらで図書館を後にして、餃子はやめてまいどやでサンドウィッチと焼きそばロール、ごぼうパンを買い、「サンドウィッチすぐ食べなかったら冷蔵庫に入れてください」というお決まりのフレーズをきいて塾へ。中2M君と「結局、いえるかどうかがわかればいいんだから」などといいながら証明や、逆は真か、などの数学をやった。「証明」の是非はよく議論になるが、「いえるかどうか」がわかるということを学ぶことは悪いことではないとは思う。

しかし同時に思う、「わかる」ことは学ぶことのほんの一部でしかなく、それは「わからないこと」のおもしろさ、よろこびにくらべたらまったくちっぽけでしかない。わからない、知らないということに叩きのめされ、以前にインタビューしたある女性アナウンサーの言葉を借りれば「ポジティブにちっぽけな私」を感じることは、こんなにも楽しいことなんだ。
だけど「わからないのすばらしさ」を知らせるにはどうしたらいいか、それは「すばらしくわからない」から、今はその「わからなさ」を「わかる」ために、小さな「わかる」を積み上げるしかない。
それは“正しい”のだろうか。

(BGMは金曜夜の定番NHK−FM渋谷陽一。何と Public Image Ltd. がかかり渋谷氏も久しぶりにきいたといっていたが、やつらは仏文学徒時代の20歳の頃中野サンプラザでみたのを思い出し、このわからなさの前でたじろいでいた自分を思い出す。さて、勢いつけて仕事の原稿書かねば)