山田洋次『武士の一分』―個人的な感想・映画の不思議

……最初に断っておきますと、このレビューはまったく個人的な山田洋次監督作品論に始まっていますので、あまり他の人の参考にはならないと思いますのでご容赦のほどを……

そういう映画ファンが少なくないように、申し訳ないけれどこれまで山田洋次監督作品をそんなにおもしろいと思ったことはなかった。そんな人々の多くがそうであるように私が映画をみるのは、何らかの発見で自分の映画観、ひいては世界観を揺さぶってほしいからであり、何かに安心したいからではない。そんな種類の映画ファンにとって山田作はただ退屈なだけで、夜9時からのテレビで放送されているそのことだけが何かであるような、たとえていえば中島みゆき蕎麦屋』の中の「大相撲中継」のような“風景”、そんな映画でしかなかった。
『寅さん』にしても『幸福の黄色いハンカチ』にしても『たそがれ清兵衛』にしても、「下町情緒」とか「ひとを想う心」とか「家族と仕事」とかの、「定型」に寄りかかり過ぎている。そう思っていたのだ。

そんなわけだから稀代の人気タレント、木村拓哉を得て話題だったこの作品に期待することは多くなかった。それなのに、み終わって感想をきかれると誰もに、「いや、おもしろかった、よかったよ」と語っていた自分がいる。これはいったいどうしたことか。
何か新しい面があるのだろうか。
あえて探せすなら、黒澤明ばりの大げさな雨や風の演出、十分とはいえないまでもイーストウッド許されざる者』を思わせる報復劇のプロットも悪くない。
しかしそれは山田作として、今までみたことがなかっただけのこと。主演キムタクはテレビのCMでみている彼がちょんまげと無精ひげで出ていただけのことだし、全然知らなかった壇れいも笹野高史もこの上ない演技を見せているが、それは彼らの素材を引き出したに過ぎないだろう。

そうしてみると、本作はこれまでとまったく変わらない山田作品に思える。では、なぜこの作品にこれほどまでにひかれたのか。
思いつくのは、映画観賞者としての自分自身の小ささ。映画は何も特別なことをしなければならないということはなく、おもしろければそれはそれでいいのだ。そういうことを忘れて、映画についてあれこれ考えていた自分のおろかさに気づく。映画は不思議なものであり、そのおもしろさはわかりようもないものなのだ。

それでいながら、三部作が終わった山田作を楽しみにするということは今後もないだろうし、山田作にない“発見”をこそ探して私は映画の前に座るだろう。それがまた“映画の不思議”なのである。
最後に繰り返すが、10年前から時代劇を演じていたような佇まいの壇れい、作中人物にしか思えない笹野高史はすばらしい好演。

1月1日 伊勢崎MOVIX

(BGMはNHKライブビート、フラワーカンパニー。これも新たな発見はあまりないがごきげんなロックンロール)