『麦の穂をゆらす風』―「しようがない」―連休前夜

いい天気だった連休前日。3回券が4月いっぱいなのと、ぜひみたかった作品だったことで、シネマテークたかさきに『麦の穂をゆらす風』をみに行きました。
起きてから仕事して、その後の予定から午後2時にシャワーを浴びてのスタート。仕事の電話をしながら高崎線に乗りますが、映画の内容からビールはやめようと思っていながら、あまりの天気のよさに、これでビールを飲まないのはばちがあたると黒ラベルを購入。幸田文を読みながら20分飲んで5分寝て起き、缶コーヒーを買って暗闇に入りました。

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もちろん本作の白眉が、うねり続ける物語であり、政治・思想・歴史にあることは承知しているが、ここでもいつもそうしているように、「映画を映画としてみる」ことを主眼を置いて書きたい。
ケン・ローチは現在、私にとってもっとも気になる映画人の一人である。何本かみた作品でその魅力は何かと考えると、「社会派」と形容される多くの作家と違って思想的には実に中立で、哀しい存在でしかない登場人物の誰もを温かい視線で見守りながら、職人的な映画づくりで実に“社会的”な問題を叩きつけることでみる者の世界に対する愛を再構築させる、そういう映画体験こそその真髄なのだという、ひとまずの結論に達する。たとえば、娘の洗礼の衣装代を稼ぐため愚かな罪に手を染めていく『レイニング・ストーン』、だめな母親の奇妙な愛を描くことで「親権」について考えさせられる『レディバードレディバード』。
演出的にはいつも、独特のタイム感にうならされる。例をあげれば、前向きに今後の方針を話し合っていたはずの集会が、いつしかとんでもない事態に発展する『大地と自由』、思ってもみない事件から主人公の哀れな姿が見える『マイ・ネーム・イズ・ジョー』といったところで、個人的にはこのタイム感はまったく作風の違った小津のそれを思い起こすのだ。
そんなケン・ローチが描くアイルランド独立運動は、中心人物たちの政治思想と身近な人たちへの思いが複雑な物語の糸を構成し、その美しさ、愚かさをこの上ない切実さをもってみる者に味わわせる。その切実さは、兄弟、幼なじみ、恋人、友人の親という、たとえば『日本の無思想』で加藤典洋が「エコノス」と呼んだ感情的な愛と、国家、社会主義への思想的なようでも実はエモーショナルな愛の間で引き裂かれる主人公たちの、悲しみとそして愚かさへの共感と驚きなのだ。だからみる者は、兄弟のいずれをとがめることはできないし、ダミアンの恋人がこぶしを振り上げるのをわがことのように感じられる。
つまり本作は、「しようがないことへの憤りと慈しみ、そしてそこからしか出発し得ない、状況をよくしようとするための問題提起」という、ケン・ローチが一貫して描いてきた作品の一にほかならない。キリアン・マーフィはじめ俳優陣はいずれもすばらしいが、ローチ作品ではあまりきっちりしてない印象の作風に関わらず役者はどうしても駒という感じが強く、またそれは悪いことではないだろう。緑の、そして荒れた大地、石づくりの民家、ツイードのジャケット、パブやホッケーといったアイルランド文化もまた重要なキャストだ。
ただ、本作でパルム・ドールを受賞というのは、『戦場のピアニスト』のポランスキー、アカデミー『ディパーテッド』のスコセッシと同じく、自身のキャリアとしてはどうか。テーマがテーマだけにしかたないとはいえ、この作品はローチらしいユーモアがなく、これだけで彼の作品が語られるのはもったいない。
個人的には初めてのケン・ローチなら、『レイニング・ストーン』や『マイ・ネーム・イズ・ジョー』をおすすめします。

4月27日 シネマテークたかさき

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と、熱くやるせない2時間を過ごし、気持ちのいい夕暮れの高崎の街へ。これでラーメン食べて行けば塾にちょうどいいと思ったところ、予定のM君母上から腰痛で部活早退のため休むとメールあり。目当てのラーメン屋も売り切れで、では新たな開拓をしようと決めました。
そこで駅本屋で情報収集。知らないラーメン屋もあり、高崎が日本有数のパスタの街というのも初めて知って興味を感じた店もあったけど、何となくソースカツ丼で知られる一二三食堂というのが気になってここに決定。少し歩くし近くに公園があるので、そこでビールでも飲んでから食べることにしました。
途中パスタ屋も確認しならが、元高崎城方面に歩行。駅周辺はやたらと開発が進み、地価の安さからかやたらと古着屋が多いなど平成以降文化優勢のこの街ですが、少し離れると昭和のにおい。揚げ物のおいしそうな何人か並んだ肉屋もありましたが、何といっても少し後にソースカツ丼のため自粛。すると20年前には全国によくあった、いい感じの文京堂という古本屋がありました。
表には『炎のランナー』あたりの中途半端な旧さのパンフレットが並び、奥まったところに昔の中高生にとって秘密の花園だったエロ雑誌が並ぶ、それでもきちんと骨太の文芸書や思想書が並ぶ、こういった古本屋が商売できるのは、もう都内や高崎級の主要地方都市だけです。
お決まりの枯れた老店主が物言わず見守るその店は、意外なほどよく本がまとめられていて好感。初めて知った本も含めていくつかの候補のうち、赤瀬川原平『純文学の素』300円と、吉田秀和『音楽――批評と展望1』200円の文庫2冊を購入。こういう店主によくあるように、意外な高い声でお礼をいいながら袋に包んでくれたその本の重みは、「あまった本ありましたら……」と変なイントネーションでいわれながら渡される黄色い袋、それはそれでありがたいけどおもしろくない、ああいうのとは違った大事な本という感じがします。きっとこの2冊を思う時、あの店主のかん高い声をいっしょに思い出すでしょう。
それか少し歩いてら一二三食堂を確認。予定通りにビールを買って公演で少し、これはさっき買った2冊を、最初のかたまりだけ、80年代と60年代に書かれた極上のテキストを薄暗く誰もいない公園で読みました。今の季節、本を読むのも戸外がいい。人も車も通り過ぎるだけで、見ているのは半分くらいの月だけです。
ほど酔いかげんで一二三食堂へ。これがまたすばらしい店でした。大きな鏡がある店内は、まさに昭和の、しかも地方都市のそれ。これはおそらく近い軽井沢喫茶店文化の影響でしょうが、訪問帖が置いてあり、多くはガイドブックを見て来たという若者の携帯メール文字が踊っています。不思議な風情の店内には、小学生と母親の一組だけ。「西武にはもういい選手が入らないんだよ」「お父さんはひとに自己紹介させるよね」という。やはりこんな店に来る小学生は自分を持っているんだなと思うと、割烹着の店のおばちゃんが「ぼく、お豆腐食べてえらいね」なんていっている。甘めのほうじ茶はすこぶるおいしく、そして出てきたのは巨大3枚入りのソースカツ丼で、ご飯にきざみ海苔が載っているのも、これはかわいらしい。たまに衣ははがれても、それもご愛嬌。香の物もベストで、「今日サービスです」という味噌汁のえのきは見事なぷりぷり感。さらに、「コーヒーと牛乳、どっちがいいでしょう」。これは母子にもきいていたが、そのオプションは意外だったので、何となく「では牛乳を」。早くもって来ちゃってすみませんと中背のグラスで来た牛乳は何だかおいしく、ではと遠い席からお盆に全部載せてお勘定に行くと、「ああ、どうもすみません、ありがとうございます」。これはいい店だ。店を出ると、母子の乗った軽自動車がブー。いつか話ができるといいな、すばらしき野球少年よ。
駅に行くと、おしゃれな今風高校生男子が5人くらい全員携帯を見ながら歩くのに混じり、20年前から迷い込んだような商業高校のネーム入りバッグを持った脚の太い女子高生が「あのセンパイねー」。
高崎はこうみるとやはり田舎の街で、帰りの電車で10分ばかり、快い眠りにも落ちられた。
「しようがない」は憤りと慈しみもあるけど、こんな幸福な時間もまた「しようがない」。

(BGMはアイルランド好きゆえ音源は多いが、ここはトラッドでなくヴァン・モリソンのベスト。おっとなんと今、雷が)