野矢茂樹『入門! 論理学』―この世にあってもっとも美しいことの一つ

今年最初の本のレビューは、すばらしい論考にいつも勉強させていただいている tokyocat さんという方のブログ(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20061008)で興味を持った“難しそう”な論理学の本です。

テーマを「論理学」に絞った本を読んだのはおそらく初めてだ。大学の時に一般教養で「仏の……」と呼ばれた教授の「論理学」の本は買ったものの、一度も授業に出ないままぱらぱらと本をめくった程度で単位は取ったし、後は高校数学程度の知識で、「B型は自己中心的だ〜B君はB型だ〜だからB君は自己中心的だ」というのも、前提を認めれば結論も正しくなる不思議で、やや退屈な学問体系くらいにしか思っていなかった。
それを読んでみる気になったのは、「物語」と「論理」、そして「文法」をめぐる tokyocat さんとのコメントのやり取り(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20060909)から、自分がまったく論理というものをわかっていなかったからと思ったからである。そして読んでみて、「論理学」が少しわかったけれどそれ以上に自分のわからないこと考えたいことが増えるという、“つまり”理想的な読書体験になりました。

個人的なことからで申し訳ないが、私は学習塾を始めた頃、「書かなきゃおぼえられない」という神話を解体することをテーマの一つにしていた。最近はドリルがはやったこともあったが、写経のような漢字練習や単語練習というのはやはり学習の、最近覚えた経営学用語でいえば「対費用効果」が悪過ぎる。その全文書き取り的イデオロギーに対抗すべく私が中学生に吹き込んでいたのは、「『書かなきゃおぼえられない』というのは言語のレベルで間違っている」という、一見論理のように思えるアナザーストーリーだったのだ。
“つまり”、基本個人で進める私の塾で、やる気を見せて漢字練習などを始め、律儀にも一行ずつ書こうとする男子中1にこういう。「漢字なんてのは、もうわかっているのを書いてもしようがない。それは勉強ではなく作業だ」、「えー、でも書かなきゃおぼえられないんじゃないですか」、「いや、例えば『ドラゴンボール』の亀仙人を知っているだろう。でも、『かめせんにん』って書いておぼえたのか。書いてないだろう。だから書かなくてもおぼえられるんだよ」というわけである。
これで「なるほど、そうですね」となるのはいいが、さらに「書かないでおぼえる学習」を身につけさせるのが簡単ではないことはいうまでもない。それどころか年を重ねるとともにいろんな意味で寛容になって、律儀なお勉強をしていても、まあそれはそれで精神の安定などということではまあいいのかも知れないと考えるのは、果たして職業倫理的にはどうなのかと考えたりもしています。

そう、世の多くの人に「論理」なんていうといやな顔をされるのは、多分そこに「物語」が見えないからだろう。反対に論理学でいう「反例」一つあれば崩れ落ちるはずの「B型は自己中心的だ」や「書かなきゃおぼえられない」が熱い支持を集め続けるのは、そこに「わかりやすい物語」があるからに違いない。
と、ここで私の生涯テーマの一つである「わかる」の謎が頭をもたげる。わかるかわからないかについていえば、私には「書かなきゃおぼえられない」というのはまったく「わからない」のだ。
もちろんこの問題は、「論理」のわかり方と「物語」のわかり方の違いだろう。この二種類を同じ「わかる」というのはいささか乱暴に思われ、大体「論理」のわかり方でいえば、「君の気持ちはわかる」なんてのはまったく意味不明といえる。

ちょっと話はずれたが、しかしこの「わかる」ということを考えなきゃ「論理」についてはまったく考えられない。
tokyocat さんは「もうこれ以上理由を説明しようがない決まり事は、じゃあいったい何に由来しているのか」を知りたいと書かれていた。このことを考えると思い出す感動的な話がある。金子隆一『ファースト・コンタクト』で読んだ、19世紀の大数学者ガウスが提唱したという地球外知性体(ETI)に送るメッセージ、すなわちシベリアのタイガを切り開いてつくる巨大な三平方の定理だ。「望遠鏡で地球の地表を観察するほど文明の進んだETIなら、ピタゴラスの定理を知らないはずがない」という一種の「思い込み」が正しいかどうかはわからないが、その近代的信念に私は感動した。ETI存在の可能性を計算して絶賛された「ドレイク方程式」で知られるドレイクが採用し1974年のETIへのメッセージとして発信された「アレシボ・メッセージ」には、同様のアイディアに基づく2進法や原子番号、DNAなどが選ばれている。科学は宇宙共通だという力強い確信を感じさせて気持ちがいい。

しかし問題はETIではない。地球人、何よりよく知っているはずの自分の頭だ。
野矢さんのすばらしい構成で楽しく読み進み、途中の問題にも挑戦するが、うっかりラーメン屋で麺の茹で具合などに気を取られていると時々間違える。さらに飲んだ帰りの電車で読んでいると、いくつかは理解をこえてわからくなってしまう。
明確にできているはずの論理がある者にはわかり、ある者にはわからない。当たり前過ぎることだが、明確に正しいのならなぜそういうことが起こるのだろう。
誰もがたどり着けるはずの道なのに、実際はたどり着けるものは少ない。それは100メートルを10秒未満で走れる人間があまりいないのと同じなのか違うのか。

例えば中学生の数学レベルでは、私はその難度をビリヤードの「クッション」にたとえる。「ハードル」でもいい。それが多ければ多いほど正解にたどり着く生徒は少なくなるのだ。
そして本書の問題でわかりにくいものを考えると大雑把に2種類があり、1)曖昧なもの、2)入れ子構造、つまり複雑なもの、に分けられると思う。

と、ここで思い出したのは、こちらは「思考」について感動的な考察が山ほど書かれている長沼行太郎『思考のための文章読本』である。確か「単語の思考」から始まる分類が、最後に「入れ子の思考」に終わっていることを思い出したのだ。
幸いすぐ見つかったので、ページをめくってみる。すると3章に「曖昧さ」について書かれていそうな、デカルト懐疑論から始まる「確実の思考」が配置されていた。これはと思ってめくってみるとその多くを忘れていることに気づく。すると今度は章末に三木清アリストテレスの「エンチュメーマ(省略三段論法)」というのに触れながら長沼さんはその延長上に「換喩(メトニミー)」を置いているのが気になった。

おお「メトニミー」は「赤ずきん」か「焼き鳥」かどっちだったかなあと、、これも10年くらい前に読んだ瀬戸賢一『メタファー思考』を探すとこれもすぐに本棚から見つかる。どうやら「赤ずきん」の方らしい……。

ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。
こんなわけで、過去に読んだ本の内容をぜんぜんおぼえていないじゃねえかと気づいた今夜。こうなると、“つまり”やっぱり書かなきゃおぼえられねえんだよとかつての中学生にでもいわれそうですが、こうやって本から本へと遡っていくのも、読書生活の楽しみの一つだぞといいつつ、何も結論らしいものがなくて申し訳ありません。
でも、わからないことがわかるというのはこの世にあってもっとも美しいことの一つなのだ、そういえば「論理」っていうものもそんな美しいものの一つかも知れないなと、かつての中学生にきかれたら応えようと思ったところでここまでにします。
野矢さんの専門は哲学だそうなので、次はヴィトゲンシュタインの本かなんか読んでみましょう。

最後に、この本からわかったこととよかった点を。
1)わかったこと
・選言、全称、量化、完全などの論理学用語
・論理学用語と日常生活語の違い
・論理学全体のアウトライン
2)よかった点
・論理学の本では画期的という記号を使わない縦書きという試み。ただし、「ド・モルガンの法則」などは集合のベン図を使った方がわかりやすそうなので、むしろ野心的なしばりといえそうです
・不完全性理論や哲学との距離の取り方。ヒットアンドアウェーのジャブのように興味を残す記述は絶妙だと思います。そういえば、ブルーバックスの不完全性理論の本は、アウトラインであおっておいて何かが書いてなくてびっくりした記憶が。もっともそのサイズで語れるものじゃあないのでしょうけど。

なんていいつつ、そのうち忘れそう。

06年12月29日読了 アマゾンにて購入

(思ったより長くなり、BGM、NHK−FM近田春夫小室哲哉のJ−POP特集は、中学生の頃にオールナイトニッポンできいて衝撃を受けた近田さんの話が久しぶりにきけてよかったが、それも終わりOB・F君が置いていった SHARP MP3 で、自分で入れてやった音源をシャッフルで今はジョン・レノン「ビューティフル・ボーイ」から「オブラディ・オブラダ」になり、なんだなんだと次に送ると、ポーグス、ブラッド・スウェット&ティアーズ)