『ホテル・ルワンダ』―「本当であること」の重要さ

高校生の頃、当時よくそうしていたように中学の同級生と麻雀をしていて、たまたまその晩のゴールデン洋画劇場で放送される『ローマの休日』の話になった。この名作をみたことがあったメンバーが私とJ君がその素晴らしさを語っていた時にT君が放った次の質問は当時「映画」というものを信じようとしていた私に、何だか異国の言葉のように響いたのを不思議と忘れない。
「それ、本当にあった話なん?」。もちろん私はこの、今は2人の10代のよき父親で当時から実に性格のいい友人に対し、何ておろかなことをいうやつだという思いを抱いた。当時もそして今も私にとって、映画の世界が「本当」かどうかはたいして重要でない。それが現実であってもなくても、映画が産み出す「ほんとう」の方がずっと尊いものだと思い続けている。
だがこの作品をみる時、「本当」ということはこれまでにない意味を持つ。この作品にとっては、「本当」であることが何より重要なのだ。
今は「ルワンダ内戦」と呼ばれる1994年という最近のこの事実について、果たしてどれだけのことを知っていただろう。ツチ族フツ族宗主国の差別的統治、サッカーW杯休戦があったことなどの断片的な知識があり、すでに衛星放送を見ていたことだしいくらかのニュース映像も目にしていたかも知れない。
しかしそうした「事実」は、あの国の人々が味わっただろう恐怖をまったく説明していなかったか、または私の方がそれを受け入れる態勢を欠いていた。この映画で観客が追体験する恐怖は、それほど強烈なものである。
それまで身近にいて何のこだわりもなく関係していた人々が、突如として変貌していく。この有様はドン・シーゲル『ボディ・スナッチャー』などの恐怖SFの世界で描かれてきたものであり、それが現実のある程度平和だった街で起こるとは到底思えない。怖いのはまた、それがだんだんと起こっていくことである。
例えば『ユナイテッド93』で乗客や航空関係者が徐々に真相を知っていくことでこの上なく恐怖が増幅されていくのと同じように、信じるに足ると思っていた人物が彼らにもどうしようもない道筋で自分の反対側に変わっていくのがリアルだ。さらにいえばドン・チードル演じる主人公が、大きなヒューマニズムは崩さないながらも、自分の家族とそれ以外のボランティアなどと大きな線を引いているのも苦しいほどリアルといえる。
さらには同じ虐殺を扱った『キリングフィールド』にあった感動的といってもいい“奇蹟”のカタルシスはここにはなく、ただこうした状況では、こうやって命を信じて、どんなことでもやって手を尽くして、それでよほど運がよかった人だけ生き残れるんだなという、当たり前の事実を知るだけなのだ。『キリングフィールド』では、あの絶望的な状況の中、ああこういう奇蹟もあるんだという希望も感じられたのに。
屋上のシーン、浴室のシーンなどまるで娯楽作品のようなハラハラドキドキがあり、感動作品のように涙を誘う再会があり、悲しい別れもある。けれどそれは、あの9・11WTCをみて「まるで映画だ」と多くの人が思ったように、こうした場面では決してめずらしくはない現実なのに映画のようなシーンで、それを再現したのがこの作品なのだろう。
とくに湾岸戦争の頃から発達してきた中途半端にリアルに感じられるニュース映像は、おそらくこうした出来事を知らせるのに向いていない。そこにあるのは衝撃や刺激だけで、人の心に迫る物語が欠けているからだ。
本作をみて「つくりもの」などという者がいたら言語道断だろう。こんな「つくりもの」をつくらせた「ほんもの」の方が貴重なのであり、そんな「つくりもの」が語るものの方が「本当」に見える「ニュース」よりよほど「ほんもの」なのだ。
T君の発言から25年。私は初めて「本当であること」が重要な映画に出会ったように思う。