宮本常一『忘れられた日本人』―私はいったい何をしているのか

読んで思った。現代人は、というより、私はいったい何をしているのかと。
例えば地球の裏側で行われているボール遊びを一大事と考えて大騒ぎしたり、ききとれもしない言葉で歌われる歌に現を抜かしたり。21世紀の日本に生きることで得られるこうした愉しみは、私にとってかけがえのない大事なものだ。だがわずか50年遡ったこの国には、これだけ強烈な日常があった。現代人は「退屈な日常」を常套句として安易に使っている。だがそれはただ退屈だと思っているだけ、つまり「退屈という物語」に冒されてるだけではないのか。
何夜も何夜も全員が納得するまで続く直接民主制対馬の「寄り合い」。こんな人がどうしてと驚くばかりの馬喰モテ男「土佐源氏」では、「盲目にのう、盲目になって、もうおっつけ三十年が来る。ごくどうをしたむくいじゃよ」という告白をきいた時の著者の驚き、どうやってこの物語を残そうかと興奮がありありと伝わってくる。「日本の村々をあるいて見ると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験を持った者が多い。村人たちはあれは世間師だといっている」、「村里生活者は個性的でなかったというけれども、今日のように口では論理的に自我を云々しつつ、私生活や私行の上ではむしろ類型的なものが見られるのに比して、行動的にはむしろ強烈なものを持った人が年寄りたちの中に多い。これを今日の人々は頑固だと言って片付けている」という「世間師」は、今まで知り合った何人かの人々の性向を考えるに、ぱちんとはまって心の中でひざを叩いた概念だった。
そして、「文字をもつ伝承者」たちの学問への信仰ともいえる真摯さや、意外に思える広いネットワーク。これは例えば知性に重きを置くことでは辟易とさせられることもあるフランス人たちとは違って、古くからの共同体に輸入の西欧的知性をソフトランディングさせることがうまくいっていた条件ゆえの、幸福な知性のあり方だと思う。
訪ねてきた著者を心配だからと、山を越えて隣村に歩いて行く伝承者たち。村社会のリーダーとしての矜持と、日本人らしい思いやりの心は、まさに「忘れられた」人々なのだろう。その美しい暮らしが、どんなに著者をひきつけていたかがよくわかる。
といっても、私は一人、自宅で今夜も昨日録画したチャンピオンズリーグをみるのが楽しみでしかたないのだが。

(BGMはJ−WAVE。番組改編がさびしい季節でもあります。おお、今 "two of us" が、と思ったら、これビートルズじゃないぞ)