『ユナイテッド93』―映画的な、あまりに映画的な

こんなに怖い映画をみたのは、初めてだったかも知れない。
「表現」とは“業”だと思う。自分の企みにかたちを与えることでこころよく思わない人がいるとしても描かずにはいられない、どうしようもなく切実なかたち。その切実さこそが、表現に力を与えるのだ。
誤解を恐れずにいえば、私は「忘れた方がいいことは、世の中にひとつもない」と信じることにしている。「忘れないために」この作品をつくった監督は入念な取材をしたというが、それがどんなに誠実だったかは「as oneself」で出演した関係者が何人もいることで明らかだ。
そして観客に事件の記憶がまだ新しいからこその、圧倒的な映画的効果。おそらく百年後の人間が本作をみても、今私たちが感じている怖さは味わえまい。現在の観客一人ひとりに残っている事件の個人的な記憶。例えばCNNの映像が管制タワーの巨大なモニターに映し出された瞬間、自分があの映像を初めて目にした時の不可解さを、作中人物の数だけ増幅されて再体験することになる。
映像作家はこの悲劇を描くのに、現時点における映像的、物語的な常識を忠実に踏襲する方法を採用した。今やドキュメンタルな映像の定番となった揺れの大きい手持ちカメラ、抑え目の音楽、一見ラフであるがゆえニュース的に見える編集、効果的なタイミングで何度も映し出される操縦桿のモスクやなすすべなく抱き合う老夫婦。こうした手法の多くはここ20年ほどの映画界で深化されたものであり、衝撃的な『地獄の黙示録』を評した蓮実重彦氏にならっていえば「凡庸」な手法なのだ。
だが、凡庸は衝撃を呼ぶ。そしておそらく、こういった衝撃は凡庸な手法でしか表現できない。
物語を排して対象をストイックに描いた点でロベール・ブレッソン、事件との距離の取り方なら『エレファント』、ラストの衝撃なら『ダンサー・イン・ザ・ダーク』などが私が思い出した先行作だが、これは人によって違うだろうしその多様さこそ本作が伝統的な映画であることの証しとなるだろう。
もっとも印象に残るのは、やはり乗客たちの "I love you."。事件当時新聞でも読んで記憶に残っていたし、本作封切時にも新聞ではこの点に言及していたので私はこのシーンのを待ち構えていたといっていい。だが文字で読んだよりはるかに説得力をもって迫るのが、映画で繰り返される "I love you." だった。こんな状況で選ぶ行動が、祈るより身近な人への "I love you." だということ。何人もの人々が自らが生きた証しにこの言葉を選択したことが、アメリカがコミュニケーションに重きを置いた国であることを証明していて興味深い。映像作家が本作を撮らずにはいられなかったように、彼らは誰かに "I love you." といわずにはいられなかったのだ。
「愛」という言葉が日本に伝わって400年が経ったが、まだまだ私たちは彼らと同じように「愛している」なんていえない。それはそれで悪いことではないけれど。
さらにいえば、とくにメガネの男を通して描かれるテロという行為の不条理。宗教から遠い私なら感じるであろうどうせ死ぬんだという思いがないであろう彼らの行動から感じられたのは、5年前にこの事件の情報に触れれれば触れるほど沸き起こってきたのと同じ種類の虚無感だった。

ユナイテッド93』 9月21日 伊勢崎MOVIXで

(BGMは、何となくききたくなったマーラーの2番『復活』。メータ+ウィーン・フィル