『ふたりの5つの分かれ路』―映画的にもっとも甘美な共犯としての“裏切り”

フランソワ・オゾンに惹きつけられるのは、その精神の怪物のごとき強引人工性とそれで現出される映画的リアル、だからこそ身につまされる奇妙な肉体的な感覚ゆえのこと。私の中で、前者は『クリミナル・ラヴァーズ』の車が去るシーンの物語から隔絶した2人の登場人物の見詰め合い、後者は『海をみる』の歯ブラシのシーンがその典型だ。
映画の世界で「変態」から始まって「感動」を描くに至るという流れは伝統的で、最近知る中ではアルモドバルがそのもっとも正統な継承者だが、オゾンの場合は洗練と素地の奇妙な使い分けがみる者の興味を離さない。私には本作は、彼にあって『8人の女たち』と同じくらいかっちりした“作品”に思えた。

時系列の逆転など本作にとって、ベースでありながらほんのちょっとしたいたずらに過ぎない。その一見変わった形式はオゾンにとって2ストライクノーボールから外に大きく外す遊び球のようなもので、その語り口にこそ本領が発揮される。

私にとって本作一番の驚きは、観客との間の見事な一種のシンコペーション。“カラフル・オゾン”全開の本作でチャプターの終りは、『8人の女たち』のようにパロディでありながらも完璧で夢見るようなミュージカルシーンで宣言されるから、何回かのルフランに観客の側は心地よい身構えを始める。
けれども……。

映画的にもっとも甘美な共犯としての“裏切り”こそ、本作のハイライト。
物語は当然のようにうじうじしたものだから、目耳をふさぐ人は多いだろう。だが私にとってオゾン映画は物語などどうでもいいことで、もうほとんどは忘れてしまっている。憶えているのは、ラストシーンの見事さくらい。

テイストは大違いでも、同じフランス100年前のリアリズム作家の小説群を「人生喜劇」と訳したことは議論の的だ。100年後に生まれたこの映像作家の一連の作品は、喜劇とも悲劇ともいい難い不思議な時間をみる者に味わわせてくれる。
そしてほぼ1年に1本のペースで発表し続けるオゾンにあって、この作品が『ぼくを葬る(おくる)』の前にあったということについて、考えることは少なくない。みる側としては、06年度No.1候補のこの作品についても早く書かねば。

05年9月29日 確か日比谷シャンテ

(BGVはほとんどがMLB、NYY:SEA。がんばってくれランディ・ジョンソン。で、その続きは昨日の記事の影響でレディオヘッド "kid a"。あらためてきくとはやり発見多)