【introduction】
塾OB・I君によれば、「最近テレビでもよくみます」の茂木氏。とはいえ、スポーツと映画、たまにニュースくらいしかみない私は画面で拝見したことはありません。
新聞書評などで読んだ「クオリア」という概念には興味を持っていたものの、著書に触れるのは初めて。多くの作がある著者のものを初めて読む場合は最新の手頃なものを選ぶという個人ルールに従い、本著に手が伸びました。

【review】
という個人ルールは、完全な失策。私が知りたかったクオリアについてはほとんど知見が深まることはなく、「ひらめき」「偶有性」「『他人』との関係」などから、「脳」を整理するためのハウトゥー本のようでした。私はとくに自分の脳を整理したいわけなどではなく、クオリアの正体がよく知りたかっただけなのです。
「最新の科学的知見をベース」にしたといいますが、何だかはぐらかされた感じ。よくみないで買った私が愚かでした。
それにしても、私が最初に脳に関する本、といってもほぼブルーバックスどまりですが、そんな本を読んだ頃からこの20年くらいの、脳科学の進歩はすごいものだなと改めて思います。右脳だ左脳だというあたりから扁桃核などの構造。CD批判で脳波のα波が注目を集めた時代もありました。そしてMRIだの、名前は忘れましたが温度で色が変わる装置など新テクノロジーの導入。そのほかドーパミンがどうしたという脳内分子とか、A10神経はじめ神経の構造や発展のしかたがどうのとか、いろいろなアイテムがかけめぐってきました。
おそらく私が感じた本書の物足りなさは、そういった“科学的”なアイテムなしに、先の「ひらめき」「偶有性」「『他人』との関係」のような、きわめて文系的なタームで語られていることへの、いくらか的外れな“違和感”なのでしょう。そして茂木氏が支持されているのは、まさしくクオリアというキーワードで脳の置き場を文系側に引き戻したことなのではないかと思います。
近年読んだ中でもっとも刺激的だったのは酒井邦嘉氏の『言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか』ですが、同じ学際的な成果でも素人目には、酒井氏の場合は理⇒文、茂木氏の場合は文⇒理という印象あり。もはや、科学的なデータだけでは人々の脳への欲求は満たせないのかも知れません。
脳に対しての私の個人的最大テーマは、例えば中学生に歴史を伝えようとしている時、なぜ“物語”が効果があるのか、それが脳にどう関わっているのかということです。この問いに対する答えを探していつも脳に関する本を読んでいるのですが、今のところもっとも納得したのは、10年以上前に読んだ養老孟司氏『唯脳論』で見つけた「脳がそうなっているからだ」という一説。この謎の関わりそうなクオリアの正体を知るため、そのうちほかの茂木氏の著書を読んでみましょう。
ところで、最初に書いたI君との会話。「いまひとつだったな」という私にI君が、「あれ、センセイ、前におもしろいっていってましたよ」。やはり、脳の整理は必要なようです。けれど、脳は常に上書きされるものだともみなさん書いてますが。

茂木健一郎『「脳」整理法』 05年11月4日読了。上野駅ブックガーデンで購入

(BGMは、スラップ・ハッピーのメンバーによるテレビ向けのオペラという00年作 "CAMERA" 。めったに活性化しない種類のクオリアが刺激されます)