ポール・ハギス『クラッシュ』〜“定型”の効果と限界

【introduction】
本年度アカデミー作品賞。前年の『ミリオンダラー・ベイビー』の脚本家ポール・ハギスの監督作で、LAが舞台の「クラッシュ」をキーワードにした群像劇です。

【review】
表現には、時間とともに思いが深まるものと反対に薄まってしまうものがありますが、私にとって本作は後者。当日の日記には「アカデミー作品賞は十分」と書いてありました。けれどもそれは今、アイロニーにさえ読めます。
ひとつひとつのエピソードは申し分ありません。意外な展開があって、どうしようもない何かを抱える登場人物たちがそのドラマの中で変わっていき、それを突き放さずに眺める“映画の視点”が存在する。J・デュヴィヴィエの『巴里の空の下セーヌは流れる』を思い出し、51年のパリと50年以上後のLAの違いということも考えました。
といってもデュヴィヴィエはいささか古過ぎるので、本作でよく引き合いに出される『マグノリア』と『トラフィック』、それから構成はちょっと違いますが複数のストーリーが交錯する『アモーレス・ペロス』と比べてみましょう。
このうち『トラフィック』と『アモーレス・ペロス』は最近みた中でももっとも好きな映画で何度も誰かに語るうちに思いが深まり、一方の『マグノリア』や本作『クラッシュ』は最初の印象は次第に薄れています。
その違いを考えて、“定型”の扱い方ということに思い当たりました。
例えば『トラフィック』での刑事の静かな怒りや絶望、『アモーレス・ペロス』の元革命家の罪悪感や後悔は、もちろん“定型”としての刑事や友人、革命家や父として描かれていますが、それはストーリーが進むとともに意外なかたちに深まり、ついには思いも寄らない方向に動いて、それが他にはない感動につながっています。
これらに対して、本作での父の介護を続ける悪徳警官、母と彼女が大事にする不良の弟との葛藤に悩む優秀な刑事の兄、『マグノリア』の自己啓発マッチョやクイズ少年は、“意外な人物像の定型”に寄りかかり過ぎていて、深まることがなかったように思われてしかたありません。物語には欠かせない“定型”の効果と限界。そんなことを考えさせられました。『ミリオンダラー・ベイビー』をみた時に感じた物足りなさの正体は、これだったのでしょうか。
ドン・チードル他豪華俳優陣は見事。

3月16日 新宿・武蔵野館にて

(BGMは本作のエンディングでかかっていたステレオフォニックスの01年作 "just enough education to perform" でした)