先週の16日、春の雨の木曜日。1ヶ月続けた仕事を仕上げるべく、塾へ車を走らせていた。途中、駅を見下ろす中央道の陸橋に向う時、きいていたMP3プレイヤー、愛機 iriver プリズムが奏で始めたのは、日本のガールズバンドの元祖といわれる、ZELDAの『黄金の時間』だった。

ゼルダをきいていていつも感じいらされるのは、よく知っているはずなのに普段は忘れがちな切なさ。あの頃特有の華やかなサウンド、それでいながら黒っぽいリズムに乗せて歌われる、サヨコさんの夜空から落ちてくる明るい色のハンカチーフのような質量を感じさせない歌。それはデビューした80年代から最終アルバムまで変わることはなかった。
なお、「Zelda」とはアメリカの作家スコット・フィッツジェラルドの、自らも作家であり狂気に落ちていった妻セルダからとったらしい。妻の作品は未読だが、『グレート・ギャツビー』で知られる夫スコットは好きな作家だ。

決してゼルダの熱烈なきき手だったわけではない。ただ、ミュージックマガジンで読むベーシスト小島さちほさんの背筋の通ったロック評、それから何といっても当時やっていたNHK−FM、確か火曜日の『午後のサウンド』。
デヴィッド・ボウイルー・リード、そして彼らほどのビッグネームではないが私にとっても学生時代の重要なミュージシャン、ジュリアン・コープについての思いを述べるその語り口に、何というか、端的にいって憧れていた。
大学を卒業して間もなくか。バブル崩壊とともに消えた有明MZAでジュリアン・コープをみた帰り、バスで知り合った学生とビールを飲み、そいつがゼルダの大ファンだといっていたことを思い出す。

とはいっても、ほかにきく音楽もやることもあふれていたその頃、数枚のアルバムをきいただけで、ゼルダは自分の中で“なつかしいバンド”になっていた。

そのゼルダが自分にとって大きな存在になったのは5年くらい前か。近くにあったBOMという店で見つけ、値札がなかったのでレジに持って行くと100円だった95年発表の最終アルバム『虹色のあわ』をきいてからだ。

サヨコさんが中米音楽の方向に行っているらしいとか、さちほさんが亡くなったどんとさんと沖縄で暮らしていたとか、そういったことは何かで知っていた。そして、ブリティッシュやニューヨークのロックから始まってワールドミュージックに移っていくその音楽遍歴は、彼女らより少し下の私を含むこの世代によくあるそれだろう。
「私たちにとってもっとも大事な場所だから」というロンドンで録音されたというこのアルバムも、そういった彼女たちのその後を感じさせながら、20年前に私が憧れていた部分が同じように息づいていて、その両方が長いキャリアに裏打ちされたサウンドに乗って気持ちよく飛び上がっている。
つややかなボーカルに酸いも甘いもかぎ分けたギターカッティングとリズム隊が乗る『かなしくて』、パラダイスなサウンドとはかない届かぬ想いの幸福な融合である『金木犀』。このアルバムはゼルダにとってビートルズの『アビイ・ロード』であり、RCサクセションの『Baby's a go go』だ。
そういえばこの頃、J−WAVEの番組をやっていたジュディマリのYUKIさんが高校の頃好きだった音楽ということでゼルダをかけ、ほとんど関心のなかった彼女を俄然身近な存在に感じたこともあった。

前のU2の記事にも書いたように、こういった長い年月をかけて関わってきた音楽をきくことはまさに“黄金の時間”。それはまさにいわゆる“重層的な”時間だけが創造することを許された喜びであり、何のことだかわからぬハイデガーの「時間は投射するものであり投射されるもの」という言葉も思い浮かぶ。

再び『黄金の時間』。
確かパルコがつくった映画『ビリイ・ザ・キッドの新しい夜明け』の主題歌で、当時は映画の予告編かなんかできいただけだったこの曲は、何年か前に買ったベスト盤できき直してまあいい曲だなと思っていた。
先週の木曜日、10回くらい歌詞にもよく注意しながらきいてみると、実に不思議な曲だったと気づく。

「一等最初に あなたを見かけたのは オーロラのかげ」「もはやこれまでと あなたを見失ったのは サハラの砂漠」
という奇妙な追いかけっこ。現代ではやや気恥ずかしいギミックにあふれたサウンドでそれらが歌われ、やがてエンディングを迎える。
「太陽がこげつき 海があふれ 風がやきもちやく 地球のどこかに あなたがかくれているはずだから」
「こんなひざしの良い日には 遊び愛手が欲しい 帽子と双眼鏡 持って 消えてしまったあなたに会いにいくの」
これぞゼルダの世界。

そして、『黄金の時間』を再発見した木曜の昼に。
陸橋の上で考えたことは、この時、暖かな雨の中で『黄金の時間』をきいたことを恐らく今後忘れることがないだろう、ということ、そして私たちの生活に“黄金の時間”は、突然に降り注ぐ、ということだった。

その数時間前、一晩仕事と戦った後で帰ってパソコンをつけ、ミューミューいう声に机の下を見るとティーが抱いていた白黒のこねこ2頭と満ち足りたティーの顔、その前に家まで送ってもらった免許取り立ての高3Fの緊張の運転、そして『黄金の時間』の時の数時間後に訪れたこの1ヶ月の仕事のゴール。
そういった普段の暮らしのひとつひとつこそ、きっと私にとっての“黄金の時間”なのであり、「消えてしまったあなた」なのだ。要はそれに気がつくかどうか。

その『黄金の時間』から1週間が経った今朝、トリノでは荒川静香が“黄金のメダル”を取り、それはこの氷上のヒロインによれば「思ってたより重い」という。
けれどこの間気づいた『黄金の時間』も“黄金の時間”も、荒川の3回転ジャンプのように重さを感じさせない。