【introduction】
心のすれ違う夫婦が、互いを理解するまでを描いた小津作品。同じディスクに入れておいた歌舞伎六代目尾上菊五郎のドキュメントもいっしょにみました。

【review】
ちょうど昨日読み終わった内田樹春日武彦両氏の『健全な肉体に狂気は宿る』でも、小津映画について語っていた。声がいい、オープニングの和紙みたいなのが出てくるだけで嬉しくなるという内田氏に、完成品の美しさを味わうという春日氏。
なるほど、さすが。だが私がいつも小津映画を見て感じることはというと、実は大いなる驚きで、始まる時の嬉しい感じが、次々に繰り出される映画的驚異にげげっ、とのけぞらされてばかりという観賞時間になる。
映画だけでなくすべてのすぐれた表現は、ほかにない発見とそれを感じる驚きに満ちたものだ。映画の場合のそれは、味方と思っていたやつが実は敵だったのような驚かすことが目的のシンプルなストーリーのどんでん返しなどでなく、つくりたいものをつくろうとした結果たどり着いてしまった、映像のあり方や俳優の演技から得られることが多い。
私の場合の小津映画の驚きは、前者は例えば『小早川家の秋』で泣き崩れる杉村春子、そのすぐ後で川沿いに佇む原節子、『宗方姉妹』でのお茶目な高峰秀子、そして何よりすべての出演作でうなずいて笑う笠智衆。後者は有名なローアングルや人物のアップもさることながら、あの煙突に代表される「縦の構図」がある。(なお、不勉強ゆえあの構図が何と呼ばれているのか知らないが、研究者やファンの間で通用する名称があればぜひおしえてください。ひとまずこの記事の中では「縦の構図」で統一しておきます)
と、「縦の構図」は何というか、あのスタティックな小津映画の中、だからこそか一層暴力的に登場する。それは多くの場合、静かに積み重ねてきた感動が最高潮に達した時とか、緩やかに複線を張り巡らせている時とか、とにかく画面に吸い込まれそうな時に、どかんと画面が縦に割られ、一見何の関係もない煙突とか登場するのだ。それもほかの画面とは明らかに異なる、幼児が描く絵のようなとりとめのない構図で。
『お茶漬の味』以外の話が長くなったが、本作での「縦の構図」は野球場の照明灯。ここでもやはり物語が動き出すことを静かに告げ、その後、当時はこういうものだったかと思う、のどかなスタンドの風景が映し出される。こんなところをみるのも小津作品の楽しみの一つだろう。
さらには、鶴田浩二ってかっこいいな、とか妻の姪か何かの当時らしい進歩的女性ぶりなどに浸っていると、いつの間にかあの台所のシーン。この場面では、小津映画の多くがそうであるように、あまり重要に見えないささやかなやり取りが徐々にその映画の中でもっとも大事なシーンだとわかってくるのがスリリングこの上ない。こうした時間の感触に近い最近の映画作家として思い浮かぶのは、意外かもしれないがイギリス社会派の巨匠ケン・ローチだ。
そしてその意外な展開に驚いていると、何だこの奥さん、漬物のありかも知らねえのか、この頃の奥さまはこういうものだろうか、などと下世話なことを考えさせられつつ物語は終わり、小津映画ではあまりみたことのないエピローグが始まる。はあっ。
こんな風に、またも驚かされる小津映画なのでした。
前にみたHPで、小津作品は状況や登場人物などが似ているから、一気にみないでたまにみるのがいい、という素晴らしいアドバイスがあったので来月あたりにまた。と思っても、もう3ヶ月経つからそろそろみてもいいかなと思うのが小津作品です。
『鏡獅子』は、こういう映画も撮っていたのかというのが一番の驚き。

小津安二郎監督 1952年 115m +1935年 24m 9月19日観

小津安二郎『お茶漬の味』+『鏡獅子』