前回更新はジョン・レノンの25回目の命日。レノン+ビートルズ特集に関わらず、時々第9とレッド・ツェッペリンと書きましたが、なぜこれが愛機 iriver に入っていたかというと、ものすごく苦戦した大仕事の終わりのテーマとして愛聴しているから。ツェッペリンといっても1曲だけ、それが「アキレス最後の戦い」です。
年末でシーズンでもある第9もこの度ワルター版全部と、ヨッフム版の合唱の部分を何度かききましたが、何といっても「アキレス」。10分以上あるこの曲を、なんだかんだと20回はききました。
今回は新たな試みとして、このロックの不滅の金字塔について書いてみましょう。スピード重視ゆえ、だ・である調で。

多くのロックファンにとってレッド・ツェッペリンが特別な存在であるように、ある種のツェッペリンファンにとって「アキレス最後の戦い」は他には代えがたい何かであり続けている。

イントロとアウトロのためだけに置かれたペイジの重くもったいぶったアルペジオが聴き手の高まる気分を鎮めるものの、ボーナムのスネア一発が戦いの始まりを告げるともう戻れない。
1970年代の後半か古代ギリシアホメロスの時代か。しかし、そのどちらでもない、唯一無二のレッド・ツェッペリン「アキレス最後の戦い」の世界に連れ出せれる。
ギターオーケストレーションがどうとか、事故後のプラントの一作目だとか、そういった類のことは数多ある研究書に任せよう。ここではこれまでの数十年で聞いた、身近な愚か者たちの発言を挙げておく。

高校の同級生S君「『プレゼンス』って、『アキレス』以外きいても失望するだけだよ」
大学の同級生K君「おれは高校のある時期、『アキレス』をきいている時間を『もっとも充実した10分』と呼んでいた」
当時高校生の塾OB・I君「いやあ、本当にすごい。おれ、Mさん(当時のガールフレンド)に『こういうのをきくっていうこと、幸せっていうのはこういうことなんだよ』っていっちゃいましたよ」

これぞ正しい10代後半。
あのクールな臨床精神科医春日武彦氏も、「アキレス」ではないが、高校の頃ツェッペリンのⅠとⅡのどっちを好きかというのは、それこそ世界を二つに分けるような最大の関心事だったと書いている(『17歳という病』)。

では「アキレス」が、そんな若者どもをひきつけるのはなぜか。
ペイジの次々に繰り出されるフレーズのカタルシス、急ぎ過ぎた人生を叩きつけたようなボンゾのローリングの昂揚感、この曲では両名に押されがちだが、プラントとジョーンズはいつものように確実な仕事をこなしている。“ロック・ソナタ”と呼んでもいい、ドラマチックな構成も見事だ。

だが、何より「アキレス」の魅力は、きくものの英雄願望をかきたてることにある。
ダンダカダンダカ、ダンダカダンダカ、ドゴドゴドゴドゴと迫り来るドラム、ターンタターン、タタッタカターンと切れまくるギター、アーアーアー、アーアッアー、アーアーアーとクライマックスに突き進むコーラスは、きく者の日常を「最後の戦い」に変える。そのあまりの陶酔感は、今回夕方の車の中できいていた私も、涙が出そうになって近くに来るまで救急車に気づかなかったほどだ。危ない。
英雄からは程遠いのが、多くの若者のリアルライフである。そんな若者たちにとって「アキレス」をきくことは、“英雄”体験に他ならない。

だから確か30歳を越えた頃、今回と同じように長く苦しんだ仕事が終わる時のBGMに私は、偉大なるベートーヴェンをきいた後に「アキレス」を選んだ。
世間から見ればそう大したことではないかも知れないが、難儀してきた大仕事を完了させる私はひとまず、私の日常においては英雄である。ニーチェもあと100年遅く生まれていたら、ワーグナーでなくツェッペリンをデュオニュソス的と呼んだことだろう。狂気の犯行に走る昨今の若者たちは、「アキレス」をきいたことがないに違いない。

つまり、見た目にはさえないパソコンのキーボードを打つ作業であっても、持ち物は剣やなんかでなく直したゲラで、行き先がトロイでなくファックスを送るセブンイレブンであっても、そんな時のBGMは、タカターン、タッタターンと、まるで多くの矢に刺されながらもがく恐竜が一歩一歩進むようなギターソロこそふさわしい。

と、原稿の終了が近づき、「アキレス」とともに興奮のままパソコンの前にいた私の周りには、ねこどもはまったくどこ吹くレッド・ツェッペリンインディアンサマーの陽だまりの中。

そんなわけで、「アキレス最後の戦い」のように感動的な今回の仕事完了でした。