加藤幹郎『映画館と観客の文化史』―だから映画は美しい。作品も観客も

年も押し詰まり寒くなりました。今日は「読書」、映画についての本です。

映画はきちんとみたいと私は思っている。できれば映画館で、自宅で録画でもそれなりに姿勢を正して、最初からエンドロールが消えるまで。この本を読んでも、その気持ちに変わりはない。ただそのようなみかたがすべてではないことはよくわかった。
オランダ、デン・ハーグのパノラマ館の記述に始まる本書がおしえてくれるのは、映画の器、そして何より観客の物語だ。といっても1957年生まれの著者に映画百年の歴史がみられるはずはないから、当然文献研究がその方法となる。資料に踊らされ過ぎないその分析は的確で、そこから抽出される観客たちの姿はおそらく上映作品に劣らずおもしろく魅力的だ。ちょうど歴史的名作『天井桟敷の人々』の観衆たちのように。
ボードビルから進展したという初期の映画上映では、舞台の生出演歌手と一緒に観客たちも大合唱していたこと。入場すると複数のキネトスコープという箱で短編を楽しむボクシングのラウンドのような「ラウンド式上映」。列車の旅を疑似体験できた「ファントム・ライド」。画面の中の自分をみるのが観客の主な目的だった「ご当地映画(ホームタウン・フィルム)」。市内ロケの日程を載せていた50年代の「京都新聞」。意外とも思えるこれらの物語は、よく考えてみると実は1963年生まれの私などの周りには、似たようなものならいくらでもあった風景だったことに気づく。
例えば、中学生の頃か弟と行ったマンガ祭りで主題歌を歌いまくっていた子どもたち。最近地元で撮ったSFタッチの作品をみに行った友人からエキストラ出演のおばちゃんたちがストーリーよりスクリーンの中の自分を探すのに夢中だったときいたし、ホームビデオの普及で手軽になった中高生の制作映画では誰がどこで出るかが最も重要な鑑賞ポイントだ。思い起こせば小さい頃は、近所の工場での野外映画会や神社などでの地域の映画会もあった。
さらにいえば、高校生くらいまで映画館も途中から入るのにそれほど抵抗はなく、銀座の名画座で初めてみた一生で二番目に重要な作品『ゴッドファーザー』の1と2でさえ、到着時間の関係で2の途中からみるという暴挙は今なら考えられない。ビデオがなかったから、テレビの洋画劇場のオープニングに間に合わず途中からみてもあまり気にしなかった。
と、ここまで考えて、今の自分がすごく不自由な映画のみ方をしているのではないかと気づく。よりよい状況を選択しようとすることが不自由につながってしまうのは、何も映画だけに限ったことではないだろう。といって、シチュエーションを選べるならきちんとみたいというのは当然の欲求だからしかたない。せめてそれが唯一の方法でないということを知っておくだけだろう。でも例えば、『アラビアのロレンス』をポータブルのDVDプレーヤーで枕もとでなんてみたくないし。
著者のすごいところは、映画館で眠る快感にまで言及している点だ。試写室で気持ちよく眠る他の記者を起こしたという“正しい”映画鑑賞者について触れ、「慎みとは『物事をあるがままにさせることであり、それらがそれ自身の本質的なありかたをとることに対する寛容』である」とエドワード・レルフなる人物のすばらしい引用を添える。この一言を知っただけでも本書の860円のうち800円の価値があるというのは少し小さい発想だけど、映画館でするのは映画をみることだけでないというセリフがあったのはウッディ・アレンの作品だったろうか。
小さな箱で一人でみることに始まりドライブインシアターのような大人数でみるように発展した映画は、今またAV機器の発達で一人でみる時代になったと著者はいう。DVDで何度もみられるようになってからの批評の変容については蓮実重彦氏も言及していたが、それは映画自体を大きく変えていくに違いない。
ならば「映画」とは何だろう。「映画」に変わってほしくないところがあるか。これは映画だけに限らず「物語」を持つメディアすべてにいえることだが、私はゲームのように鑑賞者が自由に改変できるようにだけはなってほしくない。いわゆる「ゲーム脳」について結論だ出ていない現在、ゲームの弊害があるとすれば思い通りにならないということのすばらしさを学ぶことができない点で、それを思い知るのに映画は最適のメディアだと思っているからだ。だから映画は美しい。作品も観客も。

11月13日読了 熊谷・蔦屋書店で購入

(BGMは夕方シャワー後初聴のドゥルッティ・コラムの新作 "keep beathing"。このギターはあまりに気持ちよくて、もう5回目か6回目)