野上弥生子随筆集『花』―「山よりの手紙」の中の『マルクスの娘たち』

U2だのイーストウッドだの荒くれた話が続いたので、ここで一つ、明治生まれの女性が老境に達してから書いた随筆です。

【introdoction】
著者の wikipedia の解説は(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E4%B8%8A%E5%BC%A5%E7%94%9F%E5%AD%90)。1885年、明治18年生まれとは私の祖父より20歳上だからその親の世代です。何といっても漱石の直弟子ですから。
名前くらいしか知らなかったこの人の本を古本屋で手に取ったのは、(http://blog.goo.ne.jp/quarante_ans/e/ffdc06044018da7778f5ba47df7cdae8)にあるように古い随筆は必ずおもしろいというものさしからで、しかもその古い人が1970年代というけっこう最近に書いたものとあって興味がわいたので。それと品のいい表紙。ただ、この新潮文庫はもうないようで、岩波の随筆集があるようです。

【review】
うちの祖父母などもそうだったけれど、この頃の日本人は私たちとはずいぶん違った世界を生きていたのだなと改めて思う。それは(http://blog.goo.ne.jp/quarante_ans/e/9da3251a7c57c48ef5735b068c3ea832)の週間日記にも書いた、小鳥の行方を思いやり、道を歩いていると河童がついてくる声が聞こえるというような、何とも楽しくて素敵な心持ち。山小屋の柱やガラス窓にも「帰ってきました」というのだ。
祖母なども生前よくたぬきにばかされた話をしていて、それを「そんなこといってたんだからおかしいねえ」といっていたのだから、あるひと時期まで信じていたのだろう。現代中学生などと話をしていると、何歳までサンタクロースを信じていたかが話題になることがあるが、コカ・コーラ商売の産物たる赤いサンタより、信じて美しいものがたくさんあるのではないか。
小鳥と河童の子の「巣箱」、これだけ30歳前に書いた童話仕立ての「いろいろなこと」、奈良美術とある編集者の仕事を書いた「春閑」、「先生」としての「夏目漱石」と、どれも面白い話ばかりなのだが、特に一つ紹介するとしたら「山よりの手紙」。お見舞いの返信らしいこの手紙は、容態や病院の話、老境の死生観などが語られた後でまったく思いがけない展開を見せる。
岩上淑子さんという翻訳者が送ってくれた『マルクスの娘たち』という本について語り始めると、お見舞いのことなどまったく関係なくなり、この感動的な本についての言葉がどこまでも続く。その長さ40×16だった当時の新潮文庫で40ページ弱。約25000字、原稿用紙で60枚以上だ。
この本の内容がまたすばらしい。波乱に富んだ人生を歩んだマルクスの3人の娘については何かで読んだような記憶もあるが、その何かでは伝わらなかったものがこの手紙には記されている。幸福な少女時代と、史上稀なる父から受け継いだ高潔な精神、そして思うように歩まぬ人生。これらの骨太の物語を語り始めると、百歳近い生涯ずっと現役だった作家の魂が叫ぶのだろう。
この手紙の中で語られるこの作品の何と魅力的なことか。おそらく、実際にこの本を読んだとしても「山よりの手紙」の中の『マルクスの娘たち』のようなすごみは感じないだろう。それはそうだな、たとえば草についた農薬の毒が食物連鎖を重ねるにつれ濃縮されるように、感動したことを語るからこそ生まれる、そういう種類の感動だと思う。
それにしても、独居の軽井沢の山小屋でこの手紙はどのようにして書かれたのだろうか。自分のことを書いている最初の部分のアンダンテから、一転してスケルツォで奏でられる『マルクスの娘たち』の人生はこういう書き方しかできないのが惜しいが絞りつけるように美しい。ただ身辺のことを書いていた途中、この物語のことを書きたいという欲求に捕らえられた瞬間の表現者の業が、文字の列の中で躍り上がっている。
これこそが文学の不思議なのだと思う。この意外な展開に比べて、近年の観客を体よく驚かせるためのハリウッドや邦画メジャーのどんでん返しの何と悲しいことか。驚くということは驚かせてもらうことではないはずだ。
さて現代でも、河童の声を聞いて、『マルクスの娘たち』の物語に感じることは可能なのだろうか。河童ではなく、マルクスの娘たちではなくとも、同じように生きることは、きっと難しくはないと思う。
「いろいろなこと」からの引用を最後に。

なおその饗宴はいとも些かに簡素で、お皿の数も乏しかったとはいえ、フランス王立劇場の花形女優のラ・フォースタン姉妹のお料理で、そのお給仕で、なおまた可愛らしい小鳥たちの伴食と音楽で催されたのは、どんな貴人にも望めなかったことです。私は思います。アタナシアデスお爺さんのその食事は、おそらくその晩のパリのどこの晩餐会よりも豪奢に贅沢なものであったはずだ、と。

10月30日読了 中目黒の古本屋

(BGMはキャット・パワーの名盤 you are free は何やらアニミズムな感じです)