"with or without you"―U2前夜に

12月最初に日曜。久しぶりに仕事らしい仕事はまったくせず、いい天気だったし、うっかり昼っから飲んだりしていました。
いよいよ明日は春から延びたU2公演。熱い話は冬に書いた(http://blog.goo.ne.jp/quarante_ans/e/2b6bf75e06c16d0807d7d8987e98b7fe)ので、今日は先ほど塾でOB・I君と話をした後、J−WAVEで小林克也エリック・クラプトン特集をきき、そのU2の記事を読み直して考えたことからさらに考えたというか思い出したことを。

最初に知ってから20年以上で、それなりにずっときいているミュージシャンの公演に行くというのは、ひょっとしたらもう最後かも知れない。そういうミュージシャンというのは、もうあらかたみてしまっているからだ。
ほかに誰かいるだろうかと考えてみれば、ケイト・ブッシュくらいか。キンクス、レイ・デイヴィスもみていないが、実はキンクスを本当にきき始めたのは30代になってからだ。日本人も中島みゆきはみていないが、まあその気になればいつでもみられそうなのが国内アーチストのいいところだろう。そういうわけで、もう一生で残り少ないだろう、長年敬愛してきたアーティストへの初見参ということになる。
前の記事を読み直して思い出したのだが、そのU2とてずっと愛聴してきたというわけではない。一時は多くのメディアに乗っかって、「悪魔に魂を売り渡した」と愛想を尽かしていた。そういえば今は自分にとってもっとも大事な音楽と公言しているビートルズさえ、プログレだのハードロックだのをきき始めた高校の頃からは幼稚な感じがし始めてあまりきかなくなり、大学を出てCDプレイヤーを入手してから再びきき出したのだ。

と、実はここからが今回の本題なのだが、こういうことは一体どういうことなのか。そういわれてもまったく普通のことにしか思われないかもしれないが、同じ人間の一生の中で同じ音楽がよくきこえたりそうでなかったりすること、これはけっこう不思議なことではないか。
さらに広げて、「通常の人間関係」もまったくこれと同じだと思う。特に地元の友人などでは、何かがきっかけで会ってしばらくぶりに話すと面白かったりして、それから約束したりしてしばらく付き合いが続く。なのにまたしばらくすると、何か特別なことがあったわけでなくても会う回数が減って自然に何年も会わずにいて、それでも別にさびしくも変でもない。どちらかというと田舎に多いだろうこうした付き合い方については30を過ぎた頃から不思議に感じ始めて、周りの人々にも調査すると、男女に関わらず大体みんなそんな風らしい。
ならば人に会うということはどういうことか。会っても会わないでも同じ、それではちょっと意味は違うけどU2の名曲のタイトル "with or without you" ではないか。

このことについて書かれた文章で、忘れられないものが三つある。
まず、荒川洋司さんが読売に書いていた中谷宇一郎のエッセイに関する文(『文学が好き』収録)。これは中谷が由布院に住むお祖父さんか誰かを訪ねた時の話で、その老人がいったという「会っても会わなくても同じ」という言葉から、死に別れるということと生きているのに会わないということについて書かかれたものだ。
次は佐藤雅彦さんが『毎月新聞』で書いていた、高校の友人が10年くらい前に死んでいたということを知り、そのことよりそれを自分がまったく知らないで今まで生きていたということがショックだったという文。
そしてもう一つが、保坂和志さんがこれも毎日の書評欄の連載で書いていた、中学校時代の日記が出てきて読んでみたら友だちがどうしたとかそんなことばかり書かれていて、そのこと自体もそうだが、それよりそのことをまったく忘れていたということの方が驚きだったという文だ。

U2に出会ったのと同じくらいに出会い、今も自分のものの考え方の基本にある本に岸田秀氏の『ものぐさ精神分析』があり、その中の「時間の起源は悔恨である」という一節は今も心に深く刻まれている。それはよくできた話だが、今の私の中で「時間」は起源がどうであれ、何より“驚きの舞台”だ。
ちょうど前に書いた“ワールドカップ実存主義”(http://blog.goo.ne.jp/quarante_ans/e/5185a3c23edc05714e055674a97044a2)の頃から、自分の一生の中で“今”という時間が相対化されるようになったのか、今の時間を「ああ、この時間はきっと死ぬまで忘れないだろうな」と思うことが多くなった。と同時に、「今はこうだけど、これはいつまでもこうってわけはないのだろうな」と思うことも増えている。"sunday bloody sunday" で熱狂的になった時も、"zooropa" でもう終わりだと思った時も、その感じはいつまでも続くと思っていたのに。同じように、誰かと多くの時間を過ごしている時、後であの頃あいつと同じ時間を過ごしたと思うようになるだろうなと思うことなくその時間を、少なくともかつては過ごしていた。

そんなU2前夜、さっきまでの最新作の後、やはりこれと、贅沢をいえば "one" と "vertico" があればいいだろうというヘルメットベストをきく。たたみかけるような前半の名曲連発の間、with or と bloody にはさまれた "I still haven't found what I'm looking for" は、どちらかというと地味で今までそんなにいい曲と思ったことはなかった。それが今きくと、その気恥ずかしい歌詞とともに何だか心にしみる。養老孟司氏がいうように、やはり情報は変わらず人間が変わるのだろう。音楽や抽象的な思想なら時代を超えることができるのに。

だから明日、たとえば "with or without you" が始まる時、この瞬間をいつまでも忘れないと思うだろう。そしてそれで何年か経って明日という日の晩を思い出す時、あの時あんなことを考えていたなと思い出すだろう。そういう風に時間は不思議で、音楽はすばらしい。生きていてよかった。

(画像探して検索すると「セットリスト」の文字が。絶対見てなるものか)