熊野純彦『西洋哲学史―古代から中世へ』―思考の言葉の美をそのまま味わう

著者のねらいは、おそらく単に「西洋哲学史」の紹介なのではない。誰がどんなことを考えたということでなく、誰がどんな言葉を使ったかということ、その哲学の思想とともに言葉の美しさをそのままに、哲学詩として読者に味わってもらうことだったのではないだろうか。
熊野純彦氏の著作を読むのは確か二冊目。最初に読んだ『レヴィナス入門』は、特異な思想を展開した哲学者の思考に、個人的な経験である「ばくぜんとした悲しみ」から、多分に詩的な叙述で迫っていて不思議な読後感があった。その後、この難解な思想家の一次文献を少しかじってもみたが、それより熊野氏の本の方が心の奥の方にしっかりと残っているのは、その見事な言葉の切り取り方があったからに違いない。
もともとすぐれた思考というものは、美しい詩的な面を例外なく持っている。例えば本書をめくり、「一を分有するものはすべて 一であるとともに、一でない」(プロクロス)という正確極まる言葉の微分力、「懐疑主義とは、どのようなしかたにおいてであれ、あらわれるものと思考されるものとを対置することのできる能力である」(セクストス)での「対置」や「能力」という言葉の切れ味などは、その思考そのものがもはや「形状」さえ持つ「詩」のように見えて美しい。そしてそれは周到な言葉の調理人たる熊野氏によって、味わい手である読者の前に調えられた料理だからだ。
町田健チョムスキー入門』の記事の中で一次文献でない「入門」を読むことについて書いたが、本書を読んでまた新たな「入門」のすぐれた点に気づいた。現代人、とりわけ日本人にとって、特に神学が絡む思想はまったく生活感覚と離れているから、一次文献を読んだところで疑問が起こるばかりである。しかし本書のように現代までの思想遺産を総動員して解き明かそうとすれば、それは新たな輝きを取り戻すのだ。例えば、現象と思考を峻別する古代懐疑論で援用するのは、コウモリやイエバエ、ダニなどどの動物種にはそれぞれの「世界」があるという、19〜20世紀の人ユクスキュルの環境世界論であり、他にもハイデガードゥルーズから詩人ランボーまでのおなじみの名前が、まさに縦横無尽に挙げられ、それが古代〜中世の哲学をくっきりと映し出すことになる。
そう考えてみると、これまで「わかる」とか「わからない」とかで哲学をとらえてきたことが、まったくもってつまらないことに思えてきた。帯にあるように、「〈考える〉ことを体感」すればいいのであり、それはすなわち思考の言葉の美をそのまま味わうということに他ならない。それが「真」にも「善」にもつながるはずだから。
さて、9月に出た続巻「近代から現代へ」も少ししたら読もう。あまり続けてだと大変だ。それにしても古代から中世の思想家の名前がこんなに憶えられないのは、英語圏以外の名前が多いからだけの理由だろうか。

※「一次文献」という用語も、本書で初めて知りました。この前のチョムスキーの時は何といえばいいのだろうと思いながら「本人の著作」などと書いていていたので、この言葉に出会えたことは大きな喜びでした。名前がつく、わかるということはそれだけで詩的な瞬間であり、「名詞」の大切さを思います。

10月13日読了 ブックガーデン上野で購入

(BGMは日曜にライブに行くことになり、堰を切ったようにきいている自分で選んだ伊勢正三集から、おっと渋谷陽一氏の時間だとFMに。NOW PLAYING はバッドリー・ドロウン・ボーイ。哲学は読みそうだが、ブルース・スプリングスティーンが好きなのか。そういえば、25年前に哲学を読もうというやつはみんな渋谷氏の番組をきいいてたものだと、ほんのちょっと前の昔話)