71:29〜『健全な肉体に狂気は宿る』内田樹・春日武彦

実に期待値の大きかった両名の対談は読んでびっくり。
ともに複数読んだことはあるが、その中では内田氏では『先生はえらい』、春日氏では『不幸になりたがる人々』が、どちらもその年のベストといっていいほど印象深い。

内田氏の美点は圧倒的ともいえる明快さ。
たとえば難解さの固まりのように思われるジャック・ラカンをあんなに噛み砕いて語るというのは、あまりに衝撃的だった。「わかる」ということは必ずしも「わかりやすい」ということではない、というのが私の持論である。たとえばヴィトゲンシュタインハイデガーに、「わかりやすくわかる」ということがあり得ないというような。
しかし内田氏の著書は、そんな素人論議にかんたんに穴を開けてしまう説得力がある。それで「先生」という、奇妙なコミュニケーションを暴いてみせるのだから恐れ入った。「わかりようのわかりやすさ」でいえば、私としては木田元氏にもっとも近いと思える。

一方、春日氏のそれは奇跡的と思えるスタンスの絶妙さ。
真摯な臨床精神医の著作がおもしろいのは当たり前といえば当たり前だが、たとえばこちらも大変勉強になる香山リカ氏が対象と同じ視点で隣に“並ぶ”ように症例を語るに対して、春日氏は一定のスタンスで対象に“向き合い”、常に新鮮に驚いている。
なぜトラに食われたいのか、なぜ木工細工の角度がそうでなければいけないのか、そして狂気のありふれかたという一種の“退屈”にさえ驚くのを読書として体験する時間が、氏の著作の抗しがたい魅力だと思う。“向かい合う”というかたちの日々新たなコミュニケーション。

そんな期待をもって臨んだこの対談。いったいどんなことをいうのだろうという興味は、意外ともいえる読感で打ち破られた。
それは、たとえばEURO2000のイタリア:オランダ戦のように、圧倒的なポゼッションでシュートを打ち続けるオランダのような内田氏と、一瞬のカウンターを狙って相手の動きをみるイタリアのような春日氏の姿である。

もちろん、対談だから編集者のさじ加減は大きい。確か最初の頃は全文の録音起こしがホームページで公開されていた記憶があるが、残念ながら見逃した。
それはどうでも本として読んだ感じからすれば、ワードポゼッションは、内田氏71:春日氏29くらいだ。
そして多くのサッカーの試合が、ほとんどボールを持っていなくても効果的で圧縮された時間を支配したチームが勝利を得る。この対談はサッカーでないから勝負はつかないが、ひとまず効果的ということでは春日氏の方が印象に残った。
しかしそれはサッカーがそうであるように、両氏のコミュニケーションのあり方の違いだろう。なにしろ、一方は哲学者で一方は精神科医だ。

翻って私たちの身近で普通の「対話」はどうだろう。
ワードポゼッションはどうやって決まるのか。そしてそこに何らかの“狙い”はあるのか。ある時はシュートの雨を降らせていた人物が、別の時には厳しいカテナチオをかけていないか。

お二人が話していた内容も、もちろん興味深いものだった。だが、8カ月が経った今思い起こしてみるとワードポゼッションの方が強烈な印象。
ちなみに哲学科出身OB・I君とこの本に関してよく話題になるのは、身体を中心に考えることの多い内田氏が重視していた「からだに響く言葉」です。
そういえば出張先でこの本を買った後、当時京都にいたI君と少し酒を飲んだのだった。

『健全な肉体に狂気は宿る』内田樹春日武彦 京都タワーの書店で購入。05年12月15日読了

(BGMはまったく関係ない、リッキー・リー・ジョーンズ "pop pop" 。たまにしかきかないけれど「からだに響く声」)